「まさか三輪がプロに指名されるとは……」
「まさか三輪がプロに指名されるとは、まったく思いませんでした」
三輪の母校である山口県下関中央工の恩師、山崎康浩監督(現南陽工監督)は、当時の三輪を振り返る。
「はじめて見たのは中学3年の秋ですね。足は今まで見たことがないぐらい速かったのですが……『小さいな』というのが第一印象。下関商や宇部商などの地元の名門校にも体が小さいから声が掛からず、うちに来たんですけど、守備をやらせてもグラブ捌さばきが上手く、足が速いので1年生から試合に起用していました。ただね……バッティングは非力で前に飛ばないんですよ。足の速さをプレーに生かすこともできず、時間をかけて少しずつ野球を覚えていった感じ。吸収力があり頭のいい子ではありましたが、とてもプロに入るような選手じゃない。大学、社会人の監督さんに見てもらうことすら厳しいと思っていましたからね……」
下関中央工では守備と足を買われて1年生からショートのレギュラーとして活躍するも、甲子園出場はなし。2001年、高校最後の夏となる山口大会には決勝に進出はしているものの、その晴れの舞台で三輪はスタメンから外れている。
それは準々決勝の南陽工戦だった。1点を争う緊迫した展開のなか、三輪が送りバントを試みると、バットとボールの間に左手人差し指が挟まれ、潰れた。
病院に担ぎ込まれた三輪に医師がとんでもない|喩《たと》えを言う。
「力士がリンゴを握り潰したのと同じ状態」
指はおどろくほど腫れあがり、グローブにも手は入らなくなってしまった。
「そのケガの影響で宇部商との決勝戦にも先発できなかったんです。敗色濃厚だった7回に守備から出場するんですが、指が上手く入らなくてエラーをしてしまって。そのまま3対9で敗退。そういう不完全燃焼で高校野球が終わってしまったことが、もしかしたら後悔としてあったのかもしれないですね」
「僕は硬式野球ができますか?」
高校野球を引退した三輪は、卒業後も野球を続けたいと思っていた。だが、三輪の実力では野球で取ってくれる大学も社会人もない。
三輪は“野球をするため”の就職活動に奔走する。社会人野球の名門企業の入社試験も最終面接まで順調に進み、入社に向けて好感触を得ていた。が、最後の最後にやらかしてしまう。
「最後に質問はありますか?」
「もしも採用して頂けたなら、僕が硬式野球部に入ることはできますか」
「それは、わからないですね」
「野球部に入れないのであれば、ここで落としてください」
三輪のこの発言は会社内で大問題となったらしく、結局不採用となってしまった。
「本気で野球がやりたい」ゆえに、どこにも属することができなかった三輪は、その後、他校に異動していた山崎監督の伝手で、なんとか野球部がある地元企業の「山口産業」への就職が決まった。
「山口産業は地元のガソリンスタンドなんですけどね。面接に行くと今の会長さんが出て来て『仕事と野球、頑張れるか?』って言うので、『できます!』と答えたら、『おう、入れ』って。それだけで決まりました。ガソリンスタンド出身といえば、城石さん(憲之/日本ハムコーチ)も働いていた経歴があるみたいですが、城石さんはバイト。僕は正社員ですからね。一緒にしないでください(笑)」