「いろんな人にありがとう だから今日も一生懸命」
バスケットボール選手としての八村塁の実力は、今やあらゆるメディアで語られている。私たちがそれ以上に知りたかったのは、7月に我々が出会ったあの場面の背景、つまり何が八村の心を育んだのかだった。
1998年にベナン出身の父と日本人の母のもと富山で生まれた八村は、中学校からバスケットボールを始めた。実は当初、中学校でスポーツをする気は全くなかった。「バスケ部の同級生が毎朝のように、しつこく誘ってくるから、仕方なく……」と、はじめは消極的だった八村だったが、コーチや同級生から、シュートやドリブルを一から学ぶと、抜群の身体能力は瞬く間に光り始めた。中学3年生のころには、全国大会で準優勝するまでになるが、そこにいたるまでの過程に、実は同級生とのすれ違いがあった。
「仲間たちがミスをしたりすると、八村が叱るわけですよ。『ちゃんと簡単なシュートくらい決めてこい』とかね。その当たりが強くて、段々と嫌な雰囲気になることがありました」
中学校のバスケ部コーチ、坂本穣治さんはそうした八村の気持ちを否定せずに受け止め、言葉をかけたのだという。
「『勝ちたいからそう思うのも分かる。けれど、バスケットは1人でやっているんじゃないぞ。チームの中での八村塁だろう。1年生の時に、おまえに手取り足取り教えてくれたのはこの子たちじゃないか』。そう言ってから少しずつチームがよくなってきたんです」
中学生の八村にとってこの経験は単に、チームメートとの関係性の築き方を学んだだけではなかったはずだ。チームメートがミスをしたという、いま目の前に見えている現状だけを見るのではない。広い時間軸の中で自分を支えてくれた人、将来に向けて支えてくれている人がいる。だからいまは自分が周りを支える番だと、理解したのではないだろうか。
坂本コーチが指導するバスケ部は、まさにそんな意味合いを持った言葉をスローガンにしていた。「いろんな人にありがとう だから今日も一生懸命」。八村が卒業したいまも変わらずに残っている。
「塁は家族愛の強い、心が豊かな子だった」
八村は幼いころから肌の色が周りと違うことを意識していたという。「富山で黒人がいるのは一家族ぐらいでしたし、もの珍しさで休み時間にみんな自分のことを見に来たり、そういうので嫌な思いはしていました」。しかしだからこそ4人きょうだいの長男として、弟や妹を守る気持ちが強くなっていった。
「嫌な思いをきょうだいにさせたくないという責任感、家族愛がありました」。そう語るのは、八村が中学卒業後、故郷を離れて進学した宮城県・明成高校の男子バスケ部・佐藤久夫監督だ。当時八村は佐藤監督のもと、高校3年間でウインターカップ3連覇を達成するなど華々しい成績を残していた。