「生まれ変わったら、またお父さんと結婚したい?」「いやあ……」
―― お母さまの人生を娘としてどう見ていますか?
田嶋 母は気の毒だったと思いますよ。私の父は60歳で早死にしたんですけど、戦後は病気の母をよく看病したんですよね。母は、父にすごく感謝してました。亡くなってからの3年間、毎日洗ったシャツを壁にかけて、ご飯をすえて、手をあわせていました。すごいと思いましたよ。でも、「生まれ変わったら、またお父さんと結婚したい?」と聞いたら、「いやあ、結婚だけは結構でございます」って言うの。だから、父には感謝してたけど、母の人間としての本音は違ったんですよね。
母は、新潟の大きな家に生まれて、他の人が木綿の服を着ているとき、自分だけ銘仙を着せてもらっていたそうです。それでも教育を受けさせてはもらえなかった。70歳を過ぎてからも、ずっと悔しがってましたね。あるとき、母が私の講演テープを聴いていたことがありました。ほんとにびっくりしましたよ。話が理解できたのかは分かりませんけど。母は自立したくてしょうがなかった、でもできなかった。その悔しさがあったんだと思います。
―― お母さまも女として生きることに苦しみを感じていたんですね。
田嶋 今でも忘れられないのは、母は体調が良くなると、台所に立つんです。あるとき、母の肩が震えてて、笑ってるのかなと思ったら泣いてるんです。「どうして泣いているの」って聞くと、「なんでお母さんだけが、こんな茶碗のケツをなでてなきゃいけないの」。その言葉は、一生私の中で生きてるんです。
私をいじめて苦しめた母でしたけど、46歳を過ぎてから一人の女性として見たとき、気の毒だったと思う。だから、母も私も同じフェミニストなんですよ。学問とか関係なく、自分の身から出た、魂の叫びとしてのフェミニストです。みんな自由に生きたいのです。
たじま・ようこ/1941年4月、岡山県生まれ、静岡県育ち。津田塾大学学芸学部英文学科、同博士課程を経て津田塾大非常勤講師に。元法政大学教授。元参議院議員。英文学者、女性学研究家。
フェミニズム(女性学)の第一人者として、またオピニオンリーダーとして、マスコミなどで活躍。最近は歌手活動や「書アート」活動も。『愛という名の支配』(新潮文庫)など著書多数。
(#2 「“非難の嵐”でも田嶋陽子がテレビに出続けてきた理由」に続く)
写真=白澤正/文藝春秋