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2年目に才能を開花させた要因

 長崎さんにとってもうひとつ大きかったのが、入団早々沖山コーチの指令で毎日配球ノートをつけ始めたこと。

「日付、球場、天気、風向き、バッテリーを書き、9つのマス目にすべての配球と投手のクセを記していく。最初は言われるがままに書いていたところ、わずか1か月で相手の配球が読めるようになりました。この一件で沖山さんについていこうと思いましたね。沖山さんは押し付けではなく、選手のいい部分を引き出そうとする。ひとつの形に嵌めようとするコーチが多かった時代に、とても珍しい教え方をされていたんです」

通算15年で1474試合出場。打率.279、本塁打146、508打点。サヨナラ弾5本を放っている ©鈴木七絵/文藝春秋

 2年目の1974年、長崎さんは80安打13本塁打、打率.356をマークし、シーズン3本ものサヨナラ弾を放つなど一気に才能を開花させる。そして、この活躍にはもうひとつ大きな出会いが関係していた。その年に稀代の大打者、大下弘さんがコーチに就任したのだ。

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「大下さんも細々と教えるのではなく、自分で打って見せていい所を真似しなさいと言うタイプの指導者です。大下さんは当時50歳を過ぎてましたが、構えからバットの出方など実に柔らかく力が抜けた理想的なフォームで、僕はそのイメージ通りに打席で振ろうとしていました。だから僕のフォームは基礎を沖山さんが作り、大下さんが進化させてくれたと思っています」

 長崎さんは外野の定位置を獲得し、横浜移転初年度の78年は打率.288、21本塁打、72打点をマークする。そして高木由一さんも打率.326、23本塁打、80打点。数年前に「沖山道場」でもがいていた2人は真新しいスタジアムで躍動し、松原誠、田代富雄らと強力打線を形成する。さらにスタメンには中塚政幸、翌79年に首位打者を獲得するF・ミヤーンもいた。なのに、大洋はなかなか優勝できない。

「普通の外野フライがホームランになるような川崎球場がずっと本拠地で、野球が雑になっていた部分はあるでしょうね。今思うと当時の大洋は縛りのない自由な野球をやっていたし、チーム内もみんな仲が良かった。でもその分、勝ちに対する貪欲さや、ここ一番でのつながりは希薄だった。38年も優勝できなかったのはそういうところだったと思います。あとはやはり監督が頻繁に交代するので、チームの方針がコロコロ変わってしまう。77年から別当薫さんが3年間指揮を執りましたが、横浜に移転して球場が広くなり、別当さんの持ち味である緻密な野球が機能した78、79年が僕の在籍中は唯一優勝を狙える雰囲気があった。他の年は“さあ今年はやるぞ”と開幕しても1~2か月で下位に沈んでいましたから」

 チームが早々に低迷すれば選手は自然と個人成績に走り、進塁打が求められる場面でもヒットやホームランを狙って打線がつながらない。それは大洋というチームの業のようなものだった。そんな中で長崎さんは、82年に打率.351をマークし首位打者を獲得するのである。

『ファンマガジン横浜大洋』1981年秋号の表紙を飾った長崎さん(右)。同世代でしのぎを削った高木由一選手と共に ©黒田創

(後編に続く)