「最近の横浜スタジアムを見ていると選手たちが本当に羨ましいですよ。僕らの時代は夏を過ぎると閑古鳥が鳴いていましたから……。阪神に移籍して4万、5万の大観衆の中でプレーしましたが、いつも大勢のお客さんに見られていると自然と後押しされるんです。ベイスターズもずっと満員御礼が続いていますが、それは間違いなく選手の力になっているはずです」
長崎慶一さんの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。あの1985年、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ阪神タイガースの21年ぶりリーグ優勝、初の日本一の立役者の一人で、引退後は『ズームイン!!朝!』の『プロ野球いれコミ情報』に阪神担当解説者として出演。のちに阪神の打撃コーチも務め、東京都荒川区の区議選に出馬した際は「元阪神」を前面に押し出した。世間的にはとにかく阪神のイメージの強い方だ。
でも、大洋ファンにとっての長崎慶一(81~87年の登録名は啓二)は球団史上過去9人しかいない首位打者のタイトルを獲得し、2人目となる逆転満塁サヨナラホームランを放った偉大なプレーヤー。だから長崎さんが阪神OBとしてメディアなどに登場する度に、どこか複雑な思いを抱いていたオールドファンは多いはずだ。70周年を迎えた今こそ、「ホエールズOB」としての長崎慶一さんに話を聞いてみたい。長崎さんは、昔と変わらない柔和な笑顔で取材場所に現れた。
自分のバッティングを見失ったルーキーイヤー
長崎さんは大阪の北陽高校から法政大学に進学し、4年時に東京六大学リーグで春秋連続首位打者を獲得。1972年のドラフト1位で大洋ホエールズに入団している。入ってまず驚いたのが、大洋キャンプの尋常じゃない練習量。なかでも60年代に陸上の短距離で鳴らした当時のトレーニングコーチ、田村武雄さんには徹底的にしごかれたという。
「毎日練習開始早々、競争で1時間走らされるんです。田村先生のおかげでプロでやっていく体力はつきましたね。でも、打つ方が全然ダメだった。同じく六大学リーグで首位打者になった、3学年上の谷沢健一さんが中日で1年目から活躍していたので、自分もそれなりにやれると思っていたんです。なのにプロの球の速さ、キレ、コントロールすべてについていけない。当時の大洋外野陣は江藤慎一さん、中塚政幸さん、江尻亮さんという布陣で、控えにベテランの長田幸雄さん、重松省三さんもいる。今のままではとても割って入れないと」
ルーキーイヤーの73年の成績、45安打2本塁打、打率.222。六大学野球の首位打者としては不本意な数字である。長崎さんは1年目に活躍できなかった要因をもうひとつ挙げる。
「当時は1、2軍を行き来していたのですが、1軍打撃コーチの沖山光利さんはポイントを前に置いて打ってみろと言う。でも2軍に行くと別のコーチが球を懐に呼び込めと真逆の指導をされるんです。当然それも僕を思ってのことなのですが、昼に2軍の試合に出て1軍のナイターに合流するケースが多かったから、双方の指導に対応しているうちに頭が混乱してしまう。自分には沖山さんの言う打ち方が合っていたけど、上で結果が残せていないので2軍のコーチの言う事も聞かないといけない。苦しかったですよ」
複数の指導者に従ううちに自分のバッティングを見失う。期待される打者ほど陥るパターンだ。そんな長崎さんを見かねた沖山コーチは、73年のオフに入ると長崎さんと、同じく伸び悩んでいた2年目の高木由一さんを呼び出した。
「沖山さんにお前はどっちの打ち方でやりたいんだ?と問われて、“球を前でさばく方です”と答えました。じゃあ徹底的にやろうと。それから毎日3人でひたすら練習しましたよ。来る日も来る日も、1日1000回はバットを振ったでしょうか。最後の方になると手が固まってしまいバットを離そうとしても手が開かないんです。あれは高木さんと一緒じゃなければ乗り越えられなかった。役所勤めからテスト生で入った高木さんもあの時は必死だったと思います」
厳しい練習の中で、長崎さんはひとつの答えを見出す。元々バットを垂直気味に立てて構えていたのだが、グリップの位置を顔の高さから胸の高さに下げるようになったのだ。
「大学生の球ならバットを高く構えていても内角球を捌けたけど、プロの投手、特に右投手にキレのあるスライダーを内角に放られると手が出ない。でもグリップの位置を下げてみると内角の球にも対応できるし、自然と肩の力が抜けて変化球にもついていけるようになったんです」