圧巻、のひと言だ。六本木にある国立新美術館の巨大な展示空間が、ひとりの人間の生み出す雰囲気に染め上げられている。たったひとつの魂が、これだけのことを成し遂げられるのかと驚いてしまい、畏怖の念すら感じる。
「草間彌生 わが永遠の魂」展。ビビッドな色合い、執拗に反復される水玉や突起物のイメージ、かぼちゃをはじめとするかわいらしいモチーフ。これぞ草間彌生といった「らしさ」が、会場の隅々にまで充満している。
新作にして大作「わが永遠の魂」シリーズが出迎え
いま、現代アートの世界で最も高い評価を得ている日本人はだれか。そう問われたら、村上隆や奈良美智、杉本博司、オノ・ヨーコらを差し置いても、草間彌生の名を挙げていい。1929年に松本市で生まれた彼女は、小さいころから水玉や網目のある絵を描いて時を過ごしていた。のちの作風が早くも現れ出ていたのだ。57年に米国へ渡り、前衛芸術家として名を成し、73年以降は東京を拠点に活動を続けた。
長いキャリアのどの時期を見ても、彼女の創作の手が滞ったり、止まることなんてなかった。絵画、彫刻、映像、詩、パフォーマンスなど、ジャンルを超えて生み出された作品は膨大な数に上る。2009年からは、大型絵画シリーズ「わが永遠の魂」を描き継いでおり、すでに500点以上が完成している。
この最新にして最大のシリーズ絵画は、今展でも中核をなす。会場へ入るとまずは、はるか彼方まで見渡せる大空間の壁面全体に、びっしりとカラフルな絵画が掛かる。それらすべてが「わが永遠の魂」シリーズ。今回は約130点を並べてある。
抽象的な、またときに目玉や顔面など具象的なかたちが、いくつもいくつも描かれ、画面を埋め尽くす。とにかく何かを埋めていかねば気がすまない切迫した気分、一つひとつ根気よく埋めていく意志と高揚が画面から感じとれる。対峙していると、軽いめまいに襲われる。
空間中央部には、《明日咲く花》《真夜中に咲く花》と題されたフラワーをかたどったオブジェ作品が鎮座する。こちらも赤、青、黄、緑、ピンクと鮮やかな色に彩られて、受け取る側の心持ち次第で毒にも薬にもなりそうな強烈な何かを発散している。
「ここではないどこか」へ
大空間の脇から小部屋、といってもギャラリーひとつ分は優にある広さの展示室へ入ると、一転して彼女の初期作が並ぶ。心象風景を画面に叩きつけたような、情念たっぷりの絵画。沈んだ色彩のトーンで描かれているところが、その後の作風との違いか。
さらに歩を進めると、1957年から73年にかけて、ニューヨークで暮らした時代の作品が登場する。細かい筆触を画面全体に置いていく絵画、布でできた金色の突起物で椅子の表面を埋め尽くしていく《無題(金色の椅子のオブジェ)》、ハプニングと呼ばれたパフォーマンスの記録映像と多彩だ。
小部屋はまだまだ続き、東京に拠点を移してからの作品も登場する。トレードマークといっていい、水玉を施したかぼちゃを描く《かぼちゃ》は、その巨大さになんだか可笑しさが込み上げる。屋外にはもっと巨大なかぼちゃのオブジェも置かれている。六本木のビル群の隙間に突如現れたかぼちゃを見上げていると、おとぎ話の世界にいる気分。
四方、上下とも鏡で覆われた暗がりの室内があって、そこにたくさんの明かりが灯され、鏡に映った光が奥へ奥へ、延々と続くように見える。その不思議な光景を部屋の内部に入って見ることができるのは《生命の輝きに満ちて》。何かが無限にあること、どこまでも引き伸ばされていくことを体感できる場となっている。
「永遠」や「魂」の手ざわりを感じる
いくつもの小部屋をぐるり周ってくると、連作「わが永遠の魂」のある大部屋へと戻る。およそ60年に及ぶこうしたあゆみを土台としながら、現在もなお草間彌生は作品をつくり続けているのだと再確認。ひとりのアーティストの為してきたことが、丸ごとこの会場のなかにあるという実感が湧く。
いろんな変遷があったことは、一巡してわかった。と同時に、何も変わらない、追い求めているものは恐ろしいまでに一貫しているのだとも感じる。彼女が求めてきたものは、今回の展名がずばり表している。わが永遠の魂、それだ。
草間彌生は自身の魂のありかを探し続け、また、創作に向かう自身の魂が永遠につながることを願って、作品をつくってきたし、これからもそうしていくだろう。
それぞれの時代の作品に目を奪われつつ、途方もないものに近づくことができる機会を、会場では得られるはず。「永遠」や「魂」というものに、少しでも触れられたんじゃないかと思えることなんて、他じゃめったにないではないか。