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神戸教員いじめがきっかけで給食のカレーをやめた……「善意という暴力」はなぜなくならないのか

著者は語る 『善意という暴力』(堀内進之介 著)

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『善意という暴力』(堀内進之介 著)

 善かれと思ってやったことが、相手にとっては有難迷惑――胸に手を当てれば冷や汗の出る経験がひとつやふたつはあるだろう。

「哲学者の中島義道先生のご関心なんかに近いかもしれませんね。書き始めたのは1年以上前でした。いつもの本だと見通しをしっかり立てて書くのですが、今回は日々のニュースに影響されながら、書いたり消したりした部分が大きかったですね。最近だと、神戸の教員同士のいじめ問題。おそらく学校が善かれと思って、給食にカレーを出すことをやめたって報道がありましたよね。唖然とするような話ですが、この本でいいたかった問題が詰まっているように感じました。CMの表現が炎上したり、芸能人の不祥事が叩かれたり、善意が暴走する局面は、執筆中もその後も、たくさんありましたから」

 政治社会学者の堀内進之介さんの新刊はなんとも不穏なタイトルだ。善意とはいかに危ないものなのか。数々の具体例と社会学の知見で解き明かす。

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「もともと単純な善悪の二分法に疑問がありました。悪を為すより善行を積んだほうが良い、善を選んでおけば間違いない。普通はそう思いますよね? ところが、選んだ善は本当に善きことなのか、という疑問は生じ得ないでしょうか。わかりやすい悪と比べたときに、よりましに見えるだけのベターな悪を選んでいるだけじゃないのかと。小さな善と大きな善を比べるときにはもっと露骨ですよね。大きな善をなすときは、もう何の疑いもなくなってしまう。このとき、善意は絶対に暴走します。リースマンという社会学者が、現代は“他者指向型社会”であると言っています。サービス産業が発達した世の中では、他人が何を求めているか敏感にならざるを得ない。そうやって過度に他人に関心を払うようになると、自分への関心がなくなっていく。自分の置かれている状況を理解するのが難しくなって、やがて自分と向き合うことすらしんどくなってくる。そんなときに、他者に欠点を見出してしまうと、過剰な怒りが湧いてくるわけです。こうして思い込みや狭い観点からの善し悪しの判断がくだされ、次にこうするべきという価値観と感情の押し付けが出てくるわけです。こんな話をよくするんですが、戦隊ヒーローの悪役が快活に笑うのに対して正義の味方は怒っている。善と怒りはセットなんです」

堀内進之介さん

 現代社会にそんな光景は掃いて捨てるほど転がっている。不祥事を起こした政治家や芸能人は報道で袋叩きに遭い、SNSでは無名の人の吊るし上げに無名な人が血道をあげている。

「現代社会は、発信することをとても高く評価します。かつて多くの人々は、マスメディアや書籍の情報を受け取る側にしか立てなかった。ところが今はSNSの発達で容易に自分が発信の主体になれるようになった。主体的に発信することこそが良くて、情報を受け取るという受動的な姿勢は一枚落ちる、と捉えられるようになってきた。聞く耳を持つことが重視されなくなってきたんですよね」

 善をがなりたてる人だけがいて、誰もそれに耳を傾けない、地獄の時代なのだ。

「そんな世の中で、“聞く”ことこそは再発見、再発明されるべきだろうと思っています。たとえばプレゼンテーションの訓練は学校でも行われますよね。発信することには大きな注意が払われている。ひるがえって、聞くことはどうでしょうか。英語の試験でないヒアリング、リスニングのトレーニングも、実はとても大事じゃないでしょうか」

ほりうちしんのすけ/1977年、大阪府生まれ。政治社会学者。専門は批判的社会理論。現代位相研究所首席研究員、首都大学東京客員研究員ほか。著書に『知と情意の政治学』『感情で釣られる人々』『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』など。

善意という暴力 (幻冬舎新書)

堀内 進之介

幻冬舎

2019年9月26日 発売

神戸教員いじめがきっかけで給食のカレーをやめた……「善意という暴力」はなぜなくならないのか

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