「恨みがあっても逃げれらない!」高齢の「毒親」に介護が必要になったとき、かつて虐待を受けた子どもはどうすればいいのか? 毒親との関係に悩む人たちの生々しい声を紹介し、その実態や心の内に迫った『毒親介護』が発売されました。文春オンラインで大反響を呼んだ「ルポ・毒親介護」を再掲載します。

 午後1時、ダイニングテーブルで昼食をとっていた森下早智子さん(仮名・53歳)は、「これ、いいわねぇ」とつぶやく母の声に顔を上げた。すでに食事を終え、テーブル脇のリクライニングチェアに陣取ったその視線が、大型テレビに注がれている。

「80歳からでも入れる保険! 持病があっても大丈夫!」――高齢者向け医療保険のCMにうんうんと頷きながら弾んで言う。「これなら私にピッタリじゃない。保険料も一生変わらないんだって」

 母はちょうど80歳、1年前に軽い脳梗塞になった。後遺症はないが定期的に通院し、毎日数種類の薬を服用している。なるほど「ピッタリ」には違いないが、早智子さんの背筋を思わず冷たいものが走った。

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 この人は、まだまだ生きる気力満々なんだ。あと10年、いやもしかしたら20年、こんな生活がつづくのかもしれない。そう思った途端、真綿で首を絞められるような苦しさに包まれた。(#1「要介護状態になった「毒親」を捨てたい──50歳の息子の葛藤」から続く)

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「母が毒親かって聞かれたら、すごく答えがむずかしい……」

 早智子さんは言葉を探すように、困惑した笑みを浮かべた。ブルーのサマーニットに淡水パールのネックレス姿、50代女性らしい落ち着きを漂わせる。

「資金援助をするから広い家を買おう」

 4年前まで小学生向けの学習塾でパート講師をしていたが、更年期障害で不調がつづき、やむなく退職することになった。そのタイミングを見計らったかのように、母から同居話を持ち掛けられた。

「父の死後、母は都内の実家で一人暮らしをしていました。昔ながらの小さな庭付き戸建てですが、築40年で老朽化が進み、思い切って手放したいと言ってきたんです」

 当時、早智子さんは一家4人でさいたま市郊外に住んでいた。夫は都内の会社に勤めるサラリーマン、2人の娘は大学生と高校生だった。3LDKの自宅マンションは何かと手狭の上、最寄駅からバス利用と交通の便も悪い。

 住み替えができたら……。早智子さんの気持ちを見透かしたのか、母はおもむろに「お金」の話を持ち出した。自分が資金援助をするから広くて便利な家を買おう、というのだ。

「母は専業主婦でしたが、長年の貯金と父の遺産でかなりの財産を持っていました。加えて実家を売れば『億の単位よ』と言うんです。それに比べて我が家は、ローンや教育費で出費がかさむ。夫の給料は上がらず、私は仕事を辞めて家計は赤字寸前でした。いやらしい話ですが、正直母のお金に釣られたんです」

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あのときの母の言葉は「悪魔のささやきだった」

 さらに早智子さんを揺さぶったのが、「あっちの世話にはなりたくない」という母の言葉だった。「あっち」とは兵庫県に住む兄一家を指す。もともと母は兄を溺愛し、結婚後もかなりの援助をしていたらしい。反面、兄嫁との折り合いは悪く、兄自身も母を遠ざけていた。早智子さんは以前から、恩知らずな兄一家への不満を募らせていたが、ここにきて母が見切りをつけるという。兄に勝てたような優越感、母には私しかいないという責任感、そんな思いが後押しした。

 今にして思えば、あのときの母の言葉は「悪魔のささやきだった気がする」、そう早智子さんは嘆息した。一緒に暮らす、その選択の過ちに気づけずに明るい展望さえ描いていた。

 2015年3月、早智子さん家族と母は東京都豊島区内のマンションで同居をはじめた。「日当たりがいいわねぇ」、母は自分用の居室でにこやかに言い、一新した家具やベッドに囲まれてご満悦だ。新居購入費の3分の1は母の援助、代わりに今後の生活費全般を早智子さん夫婦が負担するという条件で、あらたな暮らしは順調にスタートしたかに思えた。