30年前のきょう、1987年3月2日、東京地検が、前年12月9日に講談社の写真週刊誌『フライデー』の編集部に乱入したタレントのビートたけしを、同誌記者1名とともに傷害罪で起訴した。なお、たけしに編集部まで付き従い、逮捕されたたけし軍団11名は不起訴となる。

 事件の動機は、たけしが交際していた女性に対する『フライデー』の執拗な取材に抗議するためであった。彼としては、あくまで個人的なけんかのつもりだったという(ビートたけし『真説「たけし!」 オレの毒ガス半生記』講談社+α文庫)。しかし事件は社会的に波紋を呼び、報道倫理や言論の自由のあり方を問う議論にまで発展した。書類送検から起訴までには1カ月半と異例に長い検討期間がおかれたが、そこには上記のような背景もあった。

フライデー乱入事件後、初の会見をするビートたけし(東京・港区のビクター青山スタジオ) ©時事通信社

 たけしは事件後、いったんは1週間足らずで芸能活動を再開したものの、そのことに世間から批判の声も上がり、結果的に半年以上ものあいだ活動を自粛する。この間、東京地裁では4月より3回にわたり公判が行なわれ、6月10日には、たけしに対し懲役6カ月執行猶予2年の判決が下った。

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 活動自粛中のたけしは一時、伊豆に逗留している。そこではゴルフや天体観測をしたり、さらに数学者・広中平祐の著書を読んで「考える持続力」をつける必要を感じ、中学校の教科書の内容をやり直したりしていたという(筑紫哲也監修『たけし事件 怒りと響き』太田出版)。こうした体験は、のちの人気番組『たけし・逸見の平成教育委員会』の企画へとつながっていく。

 余談ながら、たけしと前後して、テレビタレントとして先行した萩本欽一も、1985年3月より半年間、ピークに達した自分の仕事を見直すべく活動を休止している。萩本はこのとき、大人の言葉と常識を身につけたいと予備校に通ったり、個人授業を受けたりして、大学の入試問題に挑んだ。おかげで「そこそこの水準の文系私大に受かる学力はついたかなと思」った(『私の履歴書 コメディアン 萩本欽一』日本経済新聞社)という彼は、それから30年後、73歳にして本当に駒澤大学を受験して合格している。

 同じく浅草の芸人として出発した萩本とたけしが、理由は違えど時期を前後して活動を休止し、そのあいだ似たようなことをしていたというのは興味深い。