女を売ることは、世の中を生きるための「戦略」
幼い時代の里奈は北関東の筋金入りのナイトワーカー女性らに育てられ、女が「自らの性」を糧に生きていくことを肌感覚で学んで育ってきた。もちろん女性がそんなことをせずとも自力で生きていく道が開けた世の中になったほうが良いに決まっているが、リアルを生きる彼女らにとって必要なのは、理想ではなく現実問題として圧倒的に女性の自由と尊厳が制限されてきている今を「どう生き抜くか」なのだ。
女を売ることは、女に生まれただけで理不尽で不利な世の中を生きるための「戦略」。
そして、その戦略を採るも採らぬも「女の自由じゃねえか」。
里奈の言葉に、僕の中の綺麗ごとが次々に瓦解していった。
「女でない者」が何か御用ですか?
昨今、ミソジニスト(女性嫌悪主義者)とフェミニストの言い争いの中に、フェミ的な発言をする女性が女性性を押し出した服装や表現をするだけで「矛盾」とミソジニストが騒ぎ立てる定型化した流れがあるが、里奈たちの生き様や言葉はそうした論争を鼻で笑い飛ばす。
女が生きるための戦略として、売春を糧に生きることもまた女の自由。売春しようが風俗やろうが夜職しようがAVに出ようが、すべては女の自由。ミニスカートをはこうが胸の空いた服を着ようが整形しようがメイクで美しくなろうが、女がそうしたいからすることに、「女でない者」が何か御用ですか?
もちろんそうした産業が男の財布を膨らませることに対する腹立たしさはあるものの、そのような女に生まれて生きることの自己選択権とダイナミズムを無視してその被害者像のみを切り取ったことが、里奈が僕の著書に対して憤慨した理由だったのだ。
「あたしたちを勝手に不幸だとか決めつけてカタログ作ってんじゃねえ」というわけである。
もちろんその後の人生のリスクを考えれば、彼女たちが何らかの支援に繋がるべき存在だということは曲げられない。けれど、福祉や支援や制度みたいな四角張った「漢字2文字」と彼女らの間になぜ斥力があるのかは、改めて痛いほどに学ばせてもらった。