金正男が殺された翌日、第一報が韓国を駆け巡ると、後はメディア各社の報道合戦となった。
時々刻々とマレーシアからの現地報道が流れるのと並行して、複数のメディアが、金正男の暗殺は「5年前の金正恩執権以降スタンディングオーダー(中止されるまで有効な指令)だった」と国家情報院の話を引き、そして「政権交代の危機から暗殺された」、「脅威を感じた金正男は2月初めに韓国に亡命しようと試みた」といった報道が次々と流れた。
韓国大統領選を左右する「北風」
韓国メディアの騒ぎを見ながら、前日の2月13日には、北朝鮮が新型中長距離弾道ミサイル発射成功を発表していたこともあり、「これは“北風”が吹くかもしれない」、そんな思いがよぎった。
「北風」とは、韓国の大統領選挙の流れを変えてきた、北朝鮮関連の事件のこと。「北風」が吹くと、北朝鮮の脅威論が持ち上がり、北朝鮮との宥和路線を図る進歩派ではなく、安全保障を重視する保守派が勝利する。
北風の代表的な例は、1987年に起きた北朝鮮の金賢姫元工作員によるKAL(大韓航空)爆破事件だ。この年の6月、韓国では民主化宣言が実現し、大統領選挙が間接から直接選挙へと移行した歴史的な年だった。民主化宣言を成し遂げた当時野党の金泳三、金大中候補が勢いをつけていたが、選挙日の1日前に金賢姫元工作員が韓国に連行された。野党の分裂もあったが、国家安全企画部(現国家情報院)の職員に脇を抱えられて金賢姫元工作員が飛行機のタラップを降りる衝撃的な映像は「北風」となり、結局は与党の保守派の勝利に終わった。
街の人はどう受け止めたのか
その後も大統領選挙時に「北風」が吹いたが、97年に保守派の北風工作が発覚した後はその威力は衰え、今や死語になったともいわれていた。しかし、今回ばかりは韓国の人々も、兄をも殺した金正恩朝鮮労働党委員長の北朝鮮への感情は並々ならぬものがあるに違いない、そう思った。
折しも、韓国では朴槿恵大統領の弾劾判断が間近に迫っていて、保守派と進歩派の攻防戦は熾烈を極めている。この流れに、金正男の暗殺事件が影響を及ぼすのではないか――。
金正男の暗殺に国連で使用が禁止されている猛毒神経剤VXが使われたことも発覚し、その衝撃は相当なものだろう、そんなことを思いながら、街で人々にそんな質問をぶつけてみた。
「弾劾が認められてこのまま北寄りの進歩派の大統領なんかになったら、あんな北朝鮮みたいな国になってしまう。だから、弾劾はだめなんです」(保守派、50代後半主婦)
「残忍だとは思いますよ。でも、だからこそ北朝鮮とは対話が必要なんです。それに北の暗殺事件と弾劾や選挙とはもう別の話」(進歩派、40代後半会社員)
「怖ろしい。でも、北朝鮮にはまったく関心がない。ただ、金正男の事件は影響はあると思う。保守の結束がもっと固まると思いますし、弾劾も棄却されると思う」(30代主婦)
「今は弾劾が認められるか、棄却されるかについてしか関心がない。金正男の事件についてはあの国は相変わらずだと思うし、そもそも私たち20代のほとんどは彼らを同胞とは思っていませんから。統一なんてもってのほか。このままだと弾劾が認められると思いますが、大統領選挙への影響はどうだろう、あってもわずかだと思います」(進歩派寄り、20代後半会社員)
ほとんどが弾劾に絡めた答えだった。紹介したのははっきり答えてくれた人たちの言葉で、たいていは、「残忍だ」としながらも、短く「影響はない」と一蹴し、目の前の「弾劾」がどうなるかにしか関心がないようだった。なかには、北風という言葉自体を知らない20代もいた。
それもむべなるかな、韓国の若い世代の北朝鮮への関心は薄まっている。昨年6月に統一研究院が行った意識調査では、20代の55.1%は今のままの分断体制を支持し、30代ではそれが42.2%、40代31.4%、50代は25.3%、60代以降は18.7%という結果がでていた。
ままならぬ生への哀しさを語っていた金正男
韓国紙の記者がいう。
「金正男事件も騒いでいるのはメディアばかり。日本では『金正男ロス』の人がいると知り驚いた。日本では2001年に拘束された姿がテレビで流れ、インタビューした本も出版されていて身近に感じる人が多かったのだろう。韓国は、北朝鮮という枠組みから捉えるからイメージも異なるのかもしれない」
「振る舞いは紳士的でマナーがとてもよかった」(マカオのホテルで接した従業員)といわれた金正男。マカオのニューヤオハンデパート8階のコーヒーショップで息子ハンソル氏との仲むつまじい姿が目撃されたり、ハンソル氏の妹である娘をとてもかわいがっていたことでも知られた(マカオ在住の韓国人)。マカオの知人には「ほかの誰かから借りた時間を生きている感じだ」(ハンギョレ新聞2月17日)とままならぬ生への哀しさを語っていたという。
殺害された人物について北朝鮮はまだ金正男と認めていないが、韓国の李炳浩(イ・ビョンホ)・国家情報院長は、「金正恩委員長によって組織的に展開された国家テロであることが明白だ」(2月27日)と断定した。
マレーシア当局が事件の全容を明らかにしていない段階でのこの発言には、朝鮮半島の複雑な状況が垣間見える。だが、またその一方では、こうした大事件が韓国で「北風」にもならず人々の関心の外にあるのは、それだけ韓国の人々の北朝鮮を見る視線が変化している証左であり、弾劾を巡る韓国の混乱ぶりをも表しているといえる。