いまから40年前のきょう、1977年3月9日、日本教育テレビ(NET)が3年後のモスクワオリンピックの日本での独占放送権を獲得した。同局が全国朝日放送と社名変更し、略称をテレビ朝日とした前月のことである(テレビ朝日が社名となったのは2003年)。
その前年、1976年のモントリオールオリンピックでは、NHKと民放が初めて共同取材チーム「ジャパン・プール」を組み、共通の画面・音声を分配する体制で一応の成功を収めていた。それだけに、NETがモスクワオリンピック大会組織委員会と単独で交渉を進め、契約を結んだことは、放送界に波紋を呼ぶ。
放映権料を抑えるという意味でも、ABU(アジア太平洋放送連合)を通して国内の各局が一体となって交渉することは効果的だった。実際、モントリオール五輪に際し、アメリカ国内では3大ネットワークが熾烈な争奪戦を展開した結果、ABCが75億円で独占放送権を得たのに対し、日本国内での放映権料は3億9000万円に抑えられた。これがモスクワ五輪に際しては、米国内ではNBCが約200億円で、NETもその10%程度とはいえ約20億円で獲得したと伝えられた(西田善夫『オリンピックと放送』丸善ライブラリー。金額は当時のドル・円のレートより算出)。
NETは放送権獲得後、国内の放送各社に対し、時間や金額が合えば、希望する局には五輪の映像を分配するとの基本方針を示す。それでも、NETに対し、NHKとほかの在京民放3局(日本テレビ・TBS・フジテレビ)の反発もあり、話し合いはなかなか進まなかった。
しかし、いざ開催年の1980年を迎えると、思いがけない展開を見せる。前年末の開催国のソ連(当時)によるアフガニスタン侵攻に対し、アメリカが抗議してモスクワ五輪への不参加を決定、日本もこれに同調したのだ。日本選手が出なければ中継の視聴率は見込めない。そのためテレビ朝日は、五輪放送の総時間を、当初計画の206時間余から44時間余へと大幅に縮小せざるをえなかった。
続く1984年のロサンゼルスオリンピックでは「ジャパン・プール」体制が復活、1992年のバルセロナオリンピックからは「ジャパン・コンソーシアム」へと発展する。以後、冬季オリンピックやサッカー・ワールドカップなどでも同様の体制がとられるようになった。ただし、放映権料の抑制という効果は薄れつつある。ロス五輪以降、オリンピックの放送権料は増加の一途をたどり、いまでは大会総収入の50%超を占めるまでになっている。