きょうは3月11日。東日本大震災とそれにともなう福島第一原子力発電所の事故から6年が経つ。だが、その14年前、1997年の同日にも国内の原子力関連施設で重大な事故が起こっていた。動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の東海事業所(茨城県東海村)での火災・爆発事故がそれである。

 現場となったのは、事業所内にある核燃料再処理工場の放射性廃棄物アスファルト固化施設(ASP)。再処理工場とは、原子力発電所で使用済みとなった核燃料を集め、ウランやプルトニウムを取り出す工場である。ASPでは、その再処理の過程、また工場の各施設から排出される低放射性廃液を、アスファルトと混ぜて固めるという作業が行なわれていた。

 アスファルトで固化された低放射性廃液はドラム缶に詰められ、施設内部のアスファルト充填(じゅうてん)室にまとめて置かれていた。この日午前10時6分、そのドラム缶のひとつから発火、またたく間に周囲に燃え移った。消火作業により火柱は収まるが、放射性物質を含む煙が充填室から施設全体に広がり、作業員は全員退避を余儀なくされる。さらには火災から10時間近くが経った午後8時4分、充填室付近で爆発が起き、施設の扉と窓のほとんどが破損、そこから大量の放射性物質が外部へ拡散してしまう。

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爆発事故が起きた動燃の再処理工場内アスファルト固化施設から飛び散ったガラス片など ©共同通信社

 この事故では、アスファルト固化という方法の問題性や、消火作業の不適切さなどが指摘された。さらには、動燃が科学技術庁(現・文部科学省)に対し、虚偽報告をしていたことが翌月になって明らかとなる。動燃は当初、施設内での散水により消火が確認されたと報告していたが、実際には確認はされていなかった。そのことを動燃の幹部職員は口裏合わせをして隠蔽しようとしたが、一人の作業員の抵抗により発覚する(吉岡斉『新版 原子力の社会史 その日本的展開』朝日選書)。

 その2年前、1995年12月8日には、同じく動燃の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)でナトリウム漏れ事故が発生していた。このとき動燃は事故情報の秘匿や虚偽報告を行ない、それが判明するや、厳しい批判を浴びた。そのため、今回の事故で報告内容を訂正すれば、動燃の信用をさらに落とすのではないかとの恐れが、幹部職員らを隠蔽工作に走らせたのである。だが、これが結果的に、国民の動燃への不信を決定的なものとした。

 東海村での爆発事故の約1ヵ月後、4月14日には、敦賀市の新型転換炉「ふげん」でトリチウム漏れが発生、通報が遅れてまたも問題となる。あいつぐ不祥事に、動燃は全面的見直しを迫られ、ついには解体にいたった。その業務は大幅に縮小のうえ、翌98年に発足した核燃料サイクル開発機構に引き継がれる。さらに同機構は2005年、日本原子力研究所と統合され、独立行政法人(2015年に国立研究開発法人に改称)日本原子力研究開発機構となった。