2008年には日本人スタッフが死亡
用水路には中村ならではの工夫も凝らしてあった。中村の故郷である福岡県を流れる筑後川の護岸工事に使われている蛇籠を護岸工事に使ったのだ。蛇籠は竹で1立方メートルほどの枠を作り、その中に石を詰めたもの。これを使うと護岸に植えた植物が蛇籠の間に根を張り、年月を経るほどに護岸が強度を増す。
「別に他の団体のことを悪く言うつもりはない」と中村は言うが、著名な国際援助団体の中には、集めた寄付の8割近くを団体の人件費や運営費に使い、実際の援助資金は寄付総額の2割ほどといった団体も少なくない。ペシャワール会の場合は、逆に寄付総額の9割以上を現地の支援金そのものに充ててきた。
そのペシャワール会の現地事務所では、2008年8月26日に悲劇が起きている。ボランティアスタッフとして農業指導をしていた伊藤和也=当時31=が、武装した男たちに襲われて死亡したのだ。
これを機に中村は現地事務所にいた日本人スタッフを全員帰国させ、自分だけでアフガン人とともに現地に残る道を選んだ。
このころから、中村はおそらく、今回のような悲劇に襲われる覚悟をしていたように想像する。
外国人が活動をすることの危険を十分知りつつも
その後、中村は用水路をさらに近隣地区にも広げた。中村の活動を歓迎しないアフガニスタンの農民はいなかった。しかし、外国人である中村が歓迎され、農民の熱烈な支持を受けていることを快く思わない勢力はいた。私がジャララバードの事務所を訪ねた時も、アフガニスタンの民族衣装「シャルワール・カミーズを着てくるように」と中村から指示を受けた。
外国人が頻繁に訪問する場所であることを知られること自体が、アフガニスタンでは危険であるためだ。
中村はアフガニスタンで外国人が活動をすることの危険を十分知り、行動には常に慎重だったが、ついに今回の悲劇が起きてしまった。
痛ましさに衝撃を受けつつ、中村の言葉を思い出す。
「家族と一緒に暮らし、食べていける。まず、それさえ保障されればアフガニスタンの人々は満足してくれる。紛争も収まっていく」。中村はそのために尽くした。「平和に武器はいらない」。これもしばしば中村が言っていた言葉だった。
(文中一部敬称略)