WBCにおけるヤクルト勢の活躍
WBCが終わった。大会のあり方や運営方法に対する批判は多いけれど、それでも手に汗握る熱戦の数々に、改めて野球の魅力を教えてもらったような気がする。歓喜に沸くアメリカナインの姿を見ながら、羨望と悔しさを同時に覚えるこの感覚も、WBCならではのことだろう。祭りが終わった後の寂しさを感じながら、こうしてキーボードを叩いている。
我らが侍ジャパンは準決勝で涙を呑んだ。惜しくも「世界一」の称号を勝ち取ることができなかったけれど、28名の侍戦士たちの戦いぶりに胸が熱くなる思いだった。
ヤクルトファンとしては山田哲人、秋吉亮がともに持ち味を発揮してくれたことが何よりも嬉しい。山田は全7戦にスタメン出場。打率こそ.296で、守る姿を見られなかったのは残念だったけれど、3月14日のキューバ戦では初回の先頭打者ホームラン、8回のダメ押し2ランと見事な活躍を見せてくれた。準決勝のアメリカ戦8回裏、何としてでも一点がほしい場面で淡々と犠打を決める山田。ヤクルトでは絶対に見ることのない彼の姿は胸を打つものがあった。
一方の秋吉も投手最多タイとなる6試合に登板。失点、自責点ともに0。防御率0.00と持ち味を発揮した。こちらも準決勝のアメリカ戦。絶対に追加点を許してはいけない9回表一死二塁の場面で登板した秋吉は後続を断ち切り、世界の舞台でも本領を発揮した。
また、侍ジャパン唯一の現役メジャーリーガーで、ヤクルト出身である青木宣親もよく頑張った。打率.182と不振にあえいでいたものの、日本人最多となる7死四球を選び、少しでもチームに貢献しようと努めた。チームリーダーとして、若手選手たちに積極的に声をかけている姿に彼の責任感の一端を見た気がした。
さらに、忘れてはいけないのが「侍ジャパンの頭脳」と称された、元ヤクルト・志田宗大スコアラーの存在だ。現役時代の志田氏は青木の台頭とともにポジションを失い、主に控え選手として過ごしていた。けれども、10年シーズンを最後に引退すると、ヤクルトのスコアラーとしてチームを支え続けた。その彼が侍ジャパンに欠かせない「司令塔」の一翼を担ったのだ。相手投手が替わるたびに、筒香嘉智や中田翔が志田スコアラーの下に行き、指示を仰いでいる光景は今大会中、誰もが目にしたことだろう。
ヤクルトファンとしては山田、秋吉、青木、そして志田スコアラーの奮闘を誇りに思うと同時に、改めて「ご苦労さまでした」とお礼を言いたい。
バレンティン、デニング……ヤクルトの香りが随所に
しかし、今大会における「ヤクルトの香り」は侍ジャパン以外にも、随所にプンプンとかぐわしい芳香を漂わせていた。その筆頭がオランダ代表・バレンティンだ。日頃、神宮球場ではめったに見せないひたむきなプレースタイルは新鮮だった。恐ろしいほどの集中力を発揮して鬼気迫る姿でバッターボックスに立つ姿。少しのスキも逃すまいと全力疾走でグラウンドを駆けめぐる姿。国の威信をかけてチームプレーに徹し、喜怒哀楽すべての感情を爆発させる姿。7試合に出場し、4本塁打12打点。文句のない活躍だった。
そして、そのオランダ代表を率いていたのがミューレン監督だった。NPB初のオランダ出身選手として94年にロッテに入団した彼は、翌95年にヤクルトに移籍。当時、ロッテの同僚だった「メル・ホールの執拗なイジメによる移籍」というウワサだったが、ヤクルトにとってはこれが幸いした。三振は多かったけれど、95年日本一の立役者の一人であることは間違いない。ありがとうメル・ホール!
ヤクルト時代に野村監督の下でID野球を学び、それがミューレンの現在に生かされているのだろう。大会期間中、別件取材で野村克也氏にインタビューした際に、「野村野球が今でも世界に広がっているのが嬉しい」と話していた。
また、決勝で惜しくも敗れたプエルトリコ代表チームにはロマンがいた。ヤクルトファンにとってロマンとは特別な存在だ。ヤクルトに在籍していたのは2012~15年までの4年間だったが、この間、先発、中継ぎ、抑え、さらには敗戦処理まで黙々と与えられた役割をまっとうし続けた。特に15年のリーグ制覇の際には61試合に登板。優勝の原動力となった。
4大会すべてに出場しているロマンは、今大会では目立った場面はなかったものの、それでも大会期間中には、元チームメイトの秋吉とのツーショットがインスタグラムに投稿され、ヤクルトファンを喜ばせた。15日の2次ラウンド初戦、ドミニカ共和国との一戦で先発マウンドに立った姿に涙したヤクルトファンも多かったことだろう。
侍ジャパンと同じくB組・オーストラリア代表の四番・デニングも忘れてはいけない。15年のシーズン途中に入団し、いきなり菅野智之からバックスクリーンにホームランを放って、リーグ制覇に貢献したことをヤクルトファンは今でもハッキリと覚えている。
韓国代表・林昌勇も懐かしい。08~12年までの5年間をヤクルトのリリーフエースとして過ごし、通算で128セーブを挙げた。ジェームズ・ボンドのテーマに乗って彼が登場する際には神宮球場のボルテージはマックスとなった。今大会では大会前の沖縄合宿中に無免許運転が発覚。1次ラウンドのイスラエル戦に救援登板したものの、惜しくも敗戦投手となってしまったのが残念だった。
今年も頼むぞ、バレンティン。今までありがとう、ミューレン、ロマン、デニング、イム・チャンヨン! 期せずしてWBCは「ヤクルト同窓会」の様相も呈していたのだ。
甘く切ない、ロン・デービスの思い出
ここまで挙げた選手たちに加えて、今大会でもっとも衝撃を受けたのがイスラエル代表のアイク・デービスだった。そもそも、イスラエル野球がどんなものなのかもわからないし、MLBに詳しくないので、アイク・デービスのことも知らなかった。
しかし、この選手の父親がロン・デービスだと知ったとき、一気に、イスラエル野球が、そしてアイク・デービスの存在が身近に感じられるようになった。
アイク・デービスの父、ロン・デービスがヤクルトに在籍したのは、時代が昭和から平成に変わったばかりの89年のことだった。当時の僕は浪人生。代々木にあった予備校をさぼって、歩いていつも神宮球場に通っていた頃、アイケルバーガーという空前絶後の、超絶怒涛の「ダメガイジン」に代わって、デービスは途中入団した。
ロクに勉強もせずに神宮のライトスタンドに腰を下ろしてヤクルトの応援をしていた頃、何度も目にしたのがデービスのピッチングだった。一浪人生であった僕にとって、彼はいかにも「緊急獲得」という感じの付け焼刃的補強、場当たり的入団の投手でしかなかった。メジャー通算130セーブという実績はあっても、「せいぜい、アイケルバーガーよりはマシかな?」というのが当時の僕の印象で、確かデビュー戦ではいきなり中日・宇野勝に満塁ホームランを喰らっているはずだ。
クネクネ動く、サイド気味の変なピッチングフォームで、「ボールにツバをつけている」と、当時の阪神・村山実監督から猛抗議を受けていたことも印象深い。で、やっぱりパッとした活躍はせずに4勝5敗7セーブで、この年限りで退団。現役を引退した。
ロン・デービス――。
この名前は僕にとって、甘く、そしてほろ苦く、青春の思い出に満ちた「あの頃」を思い出させる。彼のことを考えるとき、僕は80年代の弱かったヤクルト、そして先行きの見えない浪人生活の澱んだ空気感を思い出してしまい、少しだけ切なくなってしまうのだ。まさか、WBCで切なくなるとは思わなかったよ。
……あっ、稲葉篤紀コーチと、ラルー(カナダ代表)も、ヤクルト出身だった。稲葉さん本当にゴメンなさい。ラルーには、別に謝らなくてもいいかな(笑)。
ヤクルトファンの方から、「WBCでは江花正直ブルペン捕手も活躍していた」との情報が。山田哲人の練習パートナーとして陰で支えていたそうです。江花さん、失礼しました!
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※「文春野球コラム ペナントレース2017」実施中。この企画は、12人の執筆者がひいきの球団を担当し、野球コラムで戦うペナントレースです。