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2019/12/28

source : オール讀物 2007年11月号

genre : 芸能, テレビ・ラジオ, 読書, メディア

「はるみさんはセーターが編めるのでしょうか」

 阿久悠の代表作『北の宿から』(都はるみ)は、26回「紅白」(1975年)で歌われ、その翌年から大流行となった。明けても暮れても『北の宿から』で、連日、番組スタッフ宛に沢山の便りが届く。

「はるみさんの歌う“北の宿”はどこにあるのですか」

「はるみさんはセーターが編めるのでしょうか」

©iStock.com

 問合せはひっきりなしだ。阿久悠の詞はとても平易な日常語である。「あなた変りはないですか/日毎寒さがつのります/着てはもらえぬセーターを/寒さこらえて編んでます」という調子だから、ボヤキ漫才の人生幸朗が「着てもらえんようなセーターなんか編むな!」と、青筋立てて怒るほどだ。余談だが、「紅白」ではるみが着る着物はいつも総しぼりの豪華なものだった。それをネタに歌謡番組で私のアシスタントがインタビューした。

「京都のお店で1年がかりで作ったお着物を、はるみさんは紅白1回きりしか着ないんですってね」

「うん、一寸もったいないけど」

「お値段はいかほど?」

「安かったのよ、まけてもらって150万ぐらいかな」

 そんな放送の中でのやりとりがあったあと、〈安くしてもらって150万と、はるみが答えたのは、大衆性が大事なNHKの放送として国民感情のレベルから大きくはずれている、けしからん〉と、電話がジャンジャンかかって閉口した。それも、これも、『北の宿から』の巻き起したブームの余波である。そして「27回紅白」(1976年)でも、はるみは2年連続で阿久悠の『北の宿から』を歌った。

阿久悠さんの作詞した曲が9曲登場した、第27回・第28回

 第27回、第28回(1977年)の「紅白」では、阿久悠の作詞した曲が9曲ずつ歌われ、“阿久悠黄金時代”が頂点に達した。当時のスポーツ紙は「阿久、紅白を独占」と書いた。のちに阿久自身「あの時はすごかった」とふりかえり「同じ曲でも『紅白』の舞台が、作詞家にとっても歌手にとってもすごいパワーを与えられることを実感した」といっている。

 第25回「紅白」から4年続けて紅組司会者は佐良直美さんで、この人のいたずら小僧ぶりと頭の回転には恐れ入ったが、29回(1978年)の相手は森光子さんだった。森さんはお人柄がよく気配りが行き届いていて、敵に廻すのはいやだったが、“合戦”とあれば仕方なく、刃を合わせた。

「紅白」のスタッフにとっても大物歌手にとっても悩ましいのは、「トリは誰か」である。この頃は、白組は北島三郎、五木ひろし、森進一あたりがトリの常連だったが、29回の「紅白」は従来のトリのイメージを一変させる思い切った起用が話題になった。「白組は沢田研二、紅組は山口百恵」と発表された時は、業界の人々は、一様の驚きに包まれた。沢田研二は作詞阿久悠、作曲大野克夫の『LOVE(抱きしめたい)』。山口百恵は、作詞阿木燿子、作曲宇崎竜童の『プレイバックpart2』。

 阿久悠は、阿木燿子の『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』が出た時、「ヤラレタ、自分が書くべきだった」と思ったと後年、述懐しているが、この年の「紅白」対決は、作詞者としての“阿久・阿木対決”と感じた人も多かったことだろう。森光子さんの司会にもひときわ熱がこもったが、私はこんなコメントで“ジュリー”を大トリの舞台に送り出した。

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「さて、白組男性軍は力一杯女性軍と戦って参りました。しかし本心をいえば、女性をいたわる心、熱い心で女性を愛する気持は、今も昔も変りありません。さあ、全国の女性の皆さん、ジュリーの歌に抱かれて下さい。『LOVE(抱きしめたい)』、昭和53年の歌い納めは沢田研二さんです」

 結果は白組優勝。阿久悠もほっとしたにちがいない。トリの責任は、歌手はもちろん、作詞・作曲者にとっても重大なのである。