広告代理店につとめていた阿久悠がフリーとなり、作詞家としてデビューしたのは1965年(昭和40年)だった。

作詞家・阿久悠さん ©️文藝春秋

70年代は『また逢う日まで』の作詞家・阿久悠さん黄金時代

 初期の作品では北原ミレイの『ざんげの値打ちもない』などがあることを私も知ってはいたが、70年の「第21回紅白歌合戦」で『白い蝶のサンバ』(森山加代子)、『笑って許して』(和田アキ子)、『真夏のあらし』(西郷輝彦)の3曲が一度に登場したのは衝撃的だった。そして、翌年の71年には尾崎紀世彦の『また逢う日まで』の爆発的ヒットによって、阿久悠の名は日本中にとどろき渡った。

 当時の歌謡界は、演歌のほかに、フォーク、ロック、グループサウンズ、ムード歌謡などが入り乱れ、ニューミュージック系歌手が台頭してきていた。しかも、若手アイドル歌手が歌に振(ふり)をつけたりダンスをしながら歌ったりで、実に多彩な様相を呈していた。そんな中に阿久悠はいた。

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 1970年代は、まぎれもなく昭和歌謡界最後の黄金時代であり、作詞家阿久悠の黄金時代であった。そして偶然にもその時代は、私が「紅白歌合戦」の白組司会を9年連続で担当した時代とほとんど一致する。

青天の霹靂! 佐良直美さんと紅白の司会に

 74年春、NHKに君臨していた宮田輝アナウンサーが突然退職。参議院議員に立候補した。なにしろテレビの人気番組「ふるさとの歌まつり」の司会で知名度抜群。“七夕選挙”は全国区トップ当選で永田町へ行ってしまった。

 先頭をきって力強く引っ張ってくれる重厚な蒸気機関車を失った「紅白」は、軽量でスピーディな連結電車でいくしかないと、NHK首脳陣は私に白組司会を命じた。まさに青天の霹靂、それが74年の第25回「紅白」だった。

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 とにかく戸惑うことばかり。最初にコンビを組んだ紅組司会の佐良直美さんが、紅組の出場者に弁当を配っているというので、私もあわてて白組メンバー全員に“白組必勝弁当”を用意したり、衣裳を揃えたり、これがすべて自前なのだから大変だ。

 25回を記念して歌手は紅白それぞれ前年より2組多い25組が出場したから、司会部分が大幅にけずられ、白組司会者には時間調整の役目も負わされていた。この年のトップバッターが、白組西城秀樹、紅組山口百恵、初出場同士の対戦だったのも今はなつかしい。

 この「第25回紅白」に登場した阿久悠作詞の曲は合計6曲。『黄色いリボン』(桜田淳子)、『闇夜にドッキリ』(山本リンダ)、『みずいろの手紙』(あべ静江)、『ジョニィへの伝言』(ペドロ&カプリシャス)、『かなしみ模様』(ちあきなおみ)の5曲が紅組。白組は堺正章の『枯葉の宿』ただ1曲だった。