歌詞を読んだだけでドラマが脳裏に描ける、阿久悠さんの歌詞
そして翌年、30回記念「紅白」のトリも阿久作詞の曲『舟唄』になった。下戸の阿久悠が「お酒はぬるめの燗がいい」と酒飲みの気分を理解し、「あぶったイカ」をサカナに、「ダンチョネ節」をアンコにして八代亜紀に存分に歌わせ、今度は逆に紅組を優勝させた。紅組司会は水前寺清子さんだったが、この人のファイトはあっぱれで、しかも情があり、苦節15年、初出場『おもいで酒』の小林幸子を泣かせた。
31回(1980年)「紅白」から3年間は黒柳徹子さんとコンビで司会した。80年代に入っていた。このあたりから従来の「入場行進」「選手宣誓」といったパターンを一新しようという機運が高まってきた。31回は先攻・後攻の発表が事前になかった。「紅白」開始の冒頭で抽せんによって決めるという大冒険である。白組先攻の場合と紅組先攻の場合の2通りの台本がスタッフ全員に渡され緊張した。
NHKホールに、宝くじ抽せん会に使う抽せん機が持ちこまれ、回転する紅白たがいちがいの的(まと)に矢を射る仕掛だ。スイッチが押され的が回転し、私が矢を放った。白に命中した。白組先攻だ。白組のトリは五木ひろしの『ふたりの夜明け』、紅組のトリは八代亜紀の『雨の慕情』で、大トリとなった八代はうれしそうに熱唱した。「雨々ふれふれもっとふれ」。まるで大雨情報のような阿久の歌詞に、白組はずぶぬれになって敗北した。
阿久悠の詞は、毎日みんなが使っているごく普通のさりげないことばでありながら、彼の魔法にかかると、なぜか名曲になった。28回(1977年)初登場、石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』にしても、「上野発の夜行列車おりた時から/青森駅は雪の中」という歌い出しに、大ヒットの予感はなかった。しかし、ここが阿久悠のおそろしいところで、どんどん雪が降り積るように人気が高まり、5年後の33回(1982年)にも熱狂的なアンコールという形で再び登場し、石川さゆりの地位を不動のものとした。
石川に限らず女性歌手たちは「阿久さんはなぜか女心を知り尽している」とか「阿久さんの歌詞を読んだだけでドラマが脳裏に描ける」と口々に言う。
「どんな時代でも人は歌に飢えている」…阿久悠さん3つの信条
阿久作品では最多の155万3890枚を売り上げた『UFO』は77年だ。ピンク・レディーはこの年の28回「紅白」に出場して『ウォンテッド』を歌った。「阿久さんの歌詞は現実ばなれしていて、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさがあった」と未唯(みい)は言う。作曲の都倉俊一が「阿久さんには女性を崇拝していた部分がある」と分析していたのも面白い。
一方、『時代おくれ』でもいいではないかとアナログ人間に自信をうながす河島英五の歌とか、小林旭の『熱き心に』は、大人の男性に対する応援歌の気持がこめられていたにちがいない。
「どんな時代でも人は歌に飢えている」「現代人の不機嫌さをなくしたい」「日本語を大切に」この3つを信条として、阿久悠は書き続け、輝き続けた。
もう7年ほど前になるが、「週刊文春」誌上の座談会で阿久悠と話したとき、「紅白歌合戦」について阿久はこう言っていた。
「紅白歌合戦」は歌謡番組なのかと考えると、必ずしもそうは言えないだろうな、と。要するに大晦日の夜をどう過ごすかということだと思うんです。大晦日の夜はミカンと炬燵(こたつ)と「紅白」の3つの組み合わせがあって、その後に除夜の鐘がくるわけでしょ。これを崩してしまうと来年は始まらないと思っている時代の「紅白」と、他の過ごし方もあると思いだしてからの「紅白」は明らかに違うだろうと思います。最近はお祭り的じゃなくて、音楽的になってきてる。これはいいことなのか、困ったことなのかということがたぶん問題なんだろうね。
阿久悠は平成19年(2007年)8月1日に亡くなった。
今年の「紅白」では、なんらかの形で惜別のおもいを表現するであろうが、晩年の阿久が言っていた「日本の歌が空を飛ばなくなった」時代は、前途多難である。せめて、阿久悠が常に大切にしてきた日本人らしい「さわやかな感動」と「暖かな人間味」を、今後の「紅白歌合戦」に反映させてほしい。