文春オンライン

「科学よりも風評」「安全より安心」な日本人の感情論が科学を停滞させる

お茶の間の感覚より専門家を信頼して大事にすべきじゃね

2017/03/30

 自分の得意分野でニュースがあるとテレビや新聞雑誌の取材を受けたり、情報番組に呼ばれたり、月に2度ほど朝の番組でコメンテーターをやったりする私ですが、一番困るのは「得意でない話を振られたとき、自分でもクソみたいなコメントを言わざるを得なくなる現象」というものがあります。とりわけ、どこかに台風が来た、地震が起きた、殺人事件があった、大変な交通事故だ、いろんな問題が起きたとき、MCの大御所から「どう思いますか」とか振られるわけですよ。もうね、ただただ「お大事に」としか言えなくなるわけです。面白いことを言おうとすれば不謹慎だし、何も語れなければ置物扱いされてしまいます。洪水が起きて家の前の道が濁流になっている映像を必死になって伝えているレポーターを見て「うわ、住人も仕事で現地行くディレクターさんもレポーターも大変だな」と思うけど、意見を求められる私に洪水の知識などあるはずもない。でも、メディアというのはそういう仕事がそれなりの割合を占めているのです。

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全方位の専門性なんて存在しない

 んで、雑誌であれテレビであれ、どのようなトピックスやニュースでも“伝える側の意向”として「読み手(視聴者)に寄り添ってください」とか「感じたことを独自の目線で」などとお願いされるわけですよ。例えば天災や事件があって、そのよろしくない状況について読み手(視聴者)に寄り添うとなると、一緒になって怖がったり同情したり怒ったりするしかない。全方位の専門性なんて存在しないんだから仕方がないだろ。逆ギレして割り切るしかないんですよ。目の前で起きている殺人事件の事情を詳細に解説をできるのは殺した奴だけだ。本当に知るにはそいつ呼んで来るしかねえじゃんか。そう思うわけであります。

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 この手の「世の中にはすごいことが起きていても、それを伝えるメディアの側が必ずしも正しい知識に基づいた相応しい内容を常に伝えることができるわけではない」という現象は、メディアもビジネスであるという不文律によって成立しています。テレビ番組だって報道だって文春砲だって、毎回毎週読者が腰を抜かして椅子から落ちるような破壊力のある事件ばかりがあるとは限らないし、凄いネタがあっても正しく伝えられるとは限らない。ただそこにあるのは締め切りやオンエア直前まで頑張る編集者やライターやディレクターが睡眠不足で充血したうつろな目で最新情報はないか探し回る姿なのです。大きいネタのない週はお通夜のように、大炎上ネタがあるときはお祭りのように祀るのがメディアです。