「悪い女」を男の目線から描きたかった
──第3弾となる『漁師の愛人』(13年刊/のち文春文庫)は、新作インタビューの時に「漁師の妻になりたい」と言ったら却下されたという話を聞きましたが(笑)。
森 そうなんです。うちの夫が失業した時に、再就職も大変そうだったので「いっそ漁師になりませんか」と勧めてみたんですね。そうしたら「漁師はちょっと。だったら農業のほうがいい」って、本当にそのあと農協の窓口とか行ってましたよ。それで、漁師の妻になれなかったフラストレーションというか、怨念が執着心となって結実したのかな(笑)。
――しかも妻ではなく愛人という形で。
森 妻より愛人のほうが断然面白そうかなと思ったんですよね。
――これは表題作の「漁師の愛人」がわりと長い作品で、他は短めですよね。まったく違う話ながらどれもプリンが登場するプリン三部作も入っていますね。本当に短篇といってもいろいろ変化している。
森 最初は本当に風景を切り取るところから始まって、この短篇は自分に書かれたいのかなとか、今の自分がこれを書く意味があるのかなとか、いろんなことを考えるようになって。後半になるほど向き合い方が難しくなりましたし、深くもなっていったのかなとも思いますね。でも本当に、与えられたテーマではなく、自分から率先して、自分の中から現れたテーマを書いてこられたというのは、自分にとって大きな意味のあることです。そういう場を与えられて、本当にありがたいなと思っています。
――ほかには、10年計画とはまた別に『気分上々』(12年刊/のち角川文庫)という短篇集も出されていますね。
森 これはあちこちで掲載したものを1冊にまとめたものなので、結構長い期間の間に書いたものが入っていますね。短篇集ってセールス的に難しいと言われますが、自分のものに限らずもっと読まれてほしいなと思っています。
――短篇が大好きなので、本当にそう思います。なので森さんにもまだまだ書いていただきたく(笑)。さて、長篇はというと、まず、直木賞受賞2年後に理論社から『ラン』(08年刊/のち角川文庫、講談社)を発表されていますが。
森 これは時間がかかりましたよね。次は理論社で書くというのは決まっていたんですけれど、わりと時間がかかってしまって。とりあえずフルマラソンを走るところから始めちゃったので。
――ご自身が?
森 そうです。「風に舞いあがる」を書いている頃からもう走っていました。もともとはジムに行ってふざけ半分でトレッドミルの上で走ってみた時に設定が浮かんだんです。最初は主人公にフルマラソンを走らせる予定だったんですね。10キロ地点、15キロ地点、40キロ地点とかでどんな感じなのか、自分で走ってみないと分からないと思ったんです。全然走らない主人公が、だんだん走れるようになっていく話なんですが、私も全然走らなかったから、わりと生身の体験として書いていけるかなって。
――そして、『この女』(11年刊/のち文春文庫)は書き下ろし長篇。ドヤ街に暮らす日雇い労働者の青年が、ある資産家の妻の話を小説にしてほしいと頼まれますが、実際に本人に会ってみると彼女ははぐらかしてばかり。やがて彼女の過去や、また青年がなぜドヤ街で暮らしているのかも分かってくる……。
森 これはですね、すごく難しかったです。わりと私の中ではストーリーが入り組んでいる方だったので、何度も行き詰まり、何度も書き直しました。
悪い女が書きたかったんですよね。それも男の目線で描きたかったんです。男性が描く女って、いい女でも悪い女でも、なんかちょっと女性の描く女とは違う気がするんですよ。私が思う悪女のイメージは、女友達がいなくて、何があってもケロッとしていて、加害者意識も被害者意識もない。真の邪悪という意味の悪女というよりは、我が道を行く強いタイプの女性が書きたかったのかもしれないですね。
――大阪のドヤ街や神戸を舞台にして、阪神大震災も起きる。主人公の抱える事情を含め、本当にいろんな要素が入ってきていますよね。
森 この時もすごく背景を調べました。格差の問題などを考える中で、ひとつ考えていたのは、“他人同士の結びつき”ということです。家族ではなくて、他人同士がどうやって生きていくのか、ということを考えていた時期でした。そこから西成という特別な街にたどり着き、取材に行ったりして肌で感じながら、少しずつイメージを膨らませていきました。
時代設定を少し前にしたのは、震災を書くというより、震災の前を書きたかったから。震災が起きた1995年って日本が変質した時期だと言われていて、その頃の空気感もふくめて、あの時代を書きたかったというのもあったと思います。
――1995年といえば地下鉄サリン事件があった年でもありますね。バブル崩壊の少し後の時期でもありますし。
森 社会の仕組みがどんどん変わり、格差が広がっていきましたよね。私はどの年のストーリーにするか決まった段階で、主人公が日々どんなニュースに触れているのかといったことが気になるので、その頃の新聞の縮刷版を読みにいくんですよ。だいたい図書館に朝日と読売があるので、その両方を読むようにして。そうすると、その時代の空気みたいなものを感じられるんです。そのなかで、心に引っかかってくるものは反映されていきます。
――森さんってすごく勉強熱心な方という印象です。
森 え、そうですか(笑)。
――知識欲だけでなく、フルマラソンもそうですし、たとえば『秘密の花園』の翻訳がどうなっているのか気になって、翻訳版全部集めて読み比べたそうですね。
森 それは趣味みたいなものでした(笑)。セリフひとつにしても、翻訳家によって、全然印象が違ってくるじゃないですか。その違いを味わうのが楽しかったんです。
――素敵です。さて、『みかづき』という長篇を書き終え、短篇10年計画が一区切りし、今後についてはどのような展望がありますか。
森 今後は、「TRIPPER」という雑誌に、連作短篇というか、長篇といえば長篇と呼べるものを書く予定です。それはちょっと不思議な話になるかと思いますね。今後内容が変わるかもしれないので、今は具体的なことは言いません(笑)。今年のうちに始まると思います。その前に、今、翻訳をやっているんですよね。ディズニーが『くまのプーさん』を実写映画化するんですが、それにあわせて出す原作の新訳版に今とりくんでいるところです。