いまから30年前のきょう、1987年3月31日、国鉄(日本国有鉄道)は翌4月1日に分割・民営化を控え、最後の日を迎えた。

 この日は国鉄全線で自由席乗り放題の「謝恩フリーきっぷ」が売り出され、主要駅は利用客であふれ返った。午前6時に東京駅を出た東海道・山陽新幹線の始発列車、博多行き「ひかり21号」の自由席は、乗車率300%という超満員となる。午後になると、東京駅から博多・高松・大阪・名古屋、上野駅から札幌・仙台に向け、在来線を走る「新会社行きイベント列車 旅立ちJR号」が出発。それぞれJR九州・四国・西日本・東海・北海道・東日本と、翌日の各新会社の出発式に間に合うようダイヤが組まれていた。東京駅では、列車をカメラに収めようとする鉄道ファンとテレビ局クルーがもみ合いになるなど、混乱に陥る。午後8時の「旅立ちJR四国号」の発車時には、少年が線路に転落するが、幸い大事にはいたらなかった(牧久『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』講談社)。

日本国有鉄道の銘板を取りはずす杉浦喬也国鉄総裁(右)と橋元雅司同副総裁 ©共同通信社

 この間、午後3時30分、東京・丸の内の国鉄本社において、「日本国有鉄道」の銘板が杉浦喬也総裁と橋元雅司副総裁により取り外された。国鉄本社では午後5時より運輸大臣の橋本龍太郎も出席して解散パーティーが始まったが、それからまもなくして5時38分、東海道新幹線の豊橋~名古屋間で上下線が停電するという事態が発生した。

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 午後11時50分、東京駅を仙台行きの「旅立ちJR東日本号」が発車し、これが国鉄最後の列車となる。4月1日午前0時を迎えるのにあわせて、鉄道発祥の地である汐留駅(前年11月に廃止)構内で「吹鳴式」が行なわれ、杉浦と橋本が蒸気機関車C56に乗りこんだ。まず杉浦が汽笛を鳴らし、114年半にわたった国鉄の歴史の幕引きを告げると、続けて橋本も汽笛を鳴らし、JRグループの門出を祝した。東京駅に「ひかり32号」が到着したのは、その直後のことだった。これは新幹線事故のあおりを受けて、期せずして分割・民営化後最初の列車となってしまったものである(原田勝正『国鉄解体』筑摩書房)。

C56に乗車する杉浦喬也総裁 ©共同通信社

 全国の駅や車両の掲示を「JR」に切り替える作業は、一部ではすでに31日の朝から始まっていた。本格的な一斉取り換えは、31日の終電から翌朝の始発までのわずかな時間で行なわれる。翌朝、日本デザインセンター制作の「JR」のロゴマークを目にして、人々は民営化を実感したに違いない。

 民営化30年を前に、昨年には、JR九州が本州3社に続き株式を上場する一方で、JR北海道は10路線13区間について廃線を含む運行形態の見直しの方針を示すなど、各社間で明暗が分かれた。国鉄民営化については、それにより生じた負の面もあわせ、あらためて検証するべきときを迎えているのではないか。