Q 五箇さんは科学者として「安全」と「安心」をどのように区別していますか?
先日の豊洲への市場移転をめぐる都議会の「百条委員会」で石原慎太郎さんが「科学が風評の前に負けるのは文明国家として恥」と言っていました。科学的な根拠をもとにする「安全」と、あくまで人間の気分的なものを重視する「安心」があって、科学が「安全」と言っているのにそれを反故にするのはいかがなものか、という意味だと思います。五箇さんは科学者として「安全」と「安心」をどのように区別していますか?(50代・男性)
A 区別できないと思いますが、必要なのは人間同士の「納得」
結論から言えば、安全も安心も人間が決めるものであって、区別できるものではないと思っています。
築地市場移転問題で豊洲の地下水から検出された有害物質の濃度の危険性・リスクを巡って、科学的に「安全」と有識者が言っているのだから、一部都民に「不安がある」=「安心が得られない」という声があるからといって、移転を先延ばしにすべきではない――、これが石原元都知事の発言・主張の趣旨かと推察します。言われてみれば、ごもっともと思えないこともないですが、結局、石原元都知事がご自身で作られた「安全基準値」を上回る濃度のベンゼンが検出されて移転議論が紛糾しているのですから、それでも安全と言うのならば、もともとこの基準値には科学的根拠がなかったということになってしまいます。
安全基準も安心感情も、人間が決めていること
このケースをみてもわかるとおり「安全」を担保する基準値自体も、人間が恣意的に決める数値なのです。もちろん恣意的といっても好き勝手に決められるのではなく、危険率1%以下とか、0.05%以下とか、何らかの確率的根拠に基づいて「線引き」がされるのが、多くの基準値の設定プロセスとなります。
リスク・ゼロが理想ですが、どんな事象でも、危険率ゼロパーセントということはあり得ませんから、100人中1人が被害に遭うのをよしとするのか、1万人中1人をよしとするのか、それとも1億人に1人をよしとするのか……安全と危険の線引きは、人間が決めるしか無く、また決める人間の意思によって如何様にでも変えられます。
一方の安心も、人間が決めることです。1万人に1人というリスクで安心する人もいれば、1億人に1人というリスクでも安心できない人もいます。結局のところ安全も安心も、決める人、受け止める人の感覚次第ということになります。