いまから38年前のきょう、1979年4月2日、テレビ朝日でアニメ『ドラえもん』の放送が始まった。企画自体は1977年秋にさかのぼる。その前年、アニメ企画制作会社・シンエイ動画を興した楠部三吉郎は、マンガ『ドラえもん』をアニメ化したいと、原作者の藤子・F・不二雄(藤本弘)に直談判する。楠部は藤本と、これ以前より、東京ムービーの子会社・Aプロダクションの営業マンとして一緒に仕事をしていた。
楠部の話に、藤本は即答を避け、「一体どうやって『ドラえもん』を見せるのか、あなたの気持ちを書いてきてほしい」とだけ告げた。これを受けて楠部は、かつてのAプロダクションでの同僚・高畑勲(のちのアニメ映画『火垂るの墓』などの監督)の手を借りながら、後日、藤本にレポートを提出。ようやく「あなたに預けます」と承諾を得る。
このとき楠部は、今後1年間の営業権の代金として、100万円の小切手を藤本にこっそり渡そうとした。だが、これが逆鱗に触れてしまう。それというのも、『ドラえもん』はかつて別の局でアニメ化されたものの、原作者としては不満の残るものだったからだ。藤本はそんな『ドラえもん』を“出戻り”と呼び、「だからもし、もう一度嫁に出すことがあったら、せめて婿は自分で選ぼうと、そう決めていました。それで、失礼は承知の上で、レポートを書いてもらったんです。そして、私があなたを選んだ。私が選んだ婿から、お金を取れますか?」と、楠部を諭したという(楠部三吉郎『「ドラえもん」への感謝状』小学館)。
このあと楠部は、各テレビ局へ売りこみに回る。だが一度アニメ化に失敗している作品だけに、行く先々で門前払いを食らった。やがて赤字覚悟でパイロット版をつくり、それを持って回るという作戦に変更。このときアフレコに呼ばれたのは、大山のぶ代らアニメ放送開始時と同じ声優陣だった。収録時に声優たちは「この作品は面白い、絶対当たるぞ!」と言い合ったという(大山のぶ代『ぼく、ドラえもんでした。 涙と笑いの26年うちあけ話』小学館)。果たしてこのパイロット版のおかげで、テレビ朝日での放送が決まる。
テレビ朝日版『ドラえもん』は当初、月~土の夕方に10分間の帯番組として始まり、これとあわせて4月8日からは日曜朝の30分番組として全国放送も開始された。人気はうなぎ登りで、毎夕の放送はコンスタントに16~20%の視聴率を記録。劇場版も翌80年3月公開の『ドラえもん のび太の恐竜』以降、毎年つくられるようになり、テレビ版とあわせて長寿シリーズとなった。現在も続く金曜夜の放送が始まったのは、1981年10月からである。
放送開始から四半世紀をすぎた2005年には、声優もスタッフも総入れ替えするという、日本のアニメ界では前代未聞のリニューアルを行なった。そこには、藤本の遺した大切な宝物である『ドラえもん』を次世代に引き継ごうという楠部の思いがあった。