先日、三菱重工業が長崎造船所香焼工場を造船国内3位の大島造船に売却すると報道された。三菱重工業が創業の地である長崎の再編に手を付けたと大きく報じられ、SNS上には「戦艦武蔵を建造した長崎造船所が……」という声が複数見られた。
が、それは正確ではない。売却される香焼工場は長崎造船所であっても、戦後に三菱重工業が取得した土地に新規に造られた工場で、三菱重工業としての歴史は50年に満たない。
Wikipediaに個人の項目すらないが……
この香焼工場の地は、これまで2回主が替わっており、今回の売却で3回目となる。そして、香焼を日本でも屈指の大造船所として知らしめたのは、2人目の主、川南工業の川南豊作であった。
この川南、昭和初期を代表する実業家と言っていい人物だが知名度は低く、2019年12月15日現在、Wikipediaに個人の項目すらない。むしろ、戦後唯一の右翼クーデター未遂事件である三無事件の首謀者としての方で名が知られている。
後にクーデター首謀者となる実業家の躍進を支えた香焼島造船所。再び主が替わるのを契機に、この異色の経営者とこの地について見ていこう。
独立6年で資本金500倍に拡大
1902年に富山県に生まれた川南豊作は、県立水産講習所を卒業後、大阪の東洋製罐に就職する。働いて貯めた3万円を資本金にして、1931年に缶詰製造を行う川南工業を設立する。そこで製造したトマト・サーディン缶が南洋諸島向けに大当たりし、事業を拡大。ガラス工業やソーダ工業に進出し、1936年には松尾造船の香焼島造船所を買収する。
松尾造船は国内中堅の造船会社であったが、第一次大戦後の造船不況により経営破綻。香焼島造船所の操業は12年間停止していた。松尾造船時代に450万円設備投資されたこの造船所を川南はわずか15万円で買収し、その年のうちにソ連から耐氷型貨物船3隻を受注する。この3隻はソ連との契約トラブルにより引き渡されることはなかったが、うち1隻は民間船や軍の特務艦を経て、戦後は南極観測船「宗谷」となり、現在も東京の船の科学館で展示公開されている。
1936年に資本金500万円に増資して株式会社化。翌1937年には資本金が1500万円となり、創業からわずか6年で資本金を500倍にする急成長を遂げている。まだ川南は30代半ば。当時の経済誌は、川南を「青年宰相」「無駄排除の天才」と讃えている。