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三菱重工が長崎造船所香焼工場を売却 元オーナー川南豊作がたどった数奇な運命

戦後唯一の右翼クーデター「三無事件」の首謀者として知られる

2019/12/18
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戦時中は三菱や三井を超えるまでに

 香焼島造船所買収の翌1937年に日中戦争が勃発。また、1938年に失効するロンドン海軍軍縮条約を見据えて艦船需要が一気に高まると、川南工業は一気にその波に乗り事業をさらに拡大させる。第二次世界大戦中は戦時標準船の大量建造により、1944年の香焼島造船所の竣工実績は、三菱重工業長崎造船所や三井造船玉野造船所を超えるまでになっている。

 ところが、川南工業の躍進も終戦とともに潰える。数が優先の戦時標準船においては見過ごされてきたが、川南工業は粗製乱造で技術力も低かった。戦後に国が政策として行った計画造船でも、川南工業は受注した2隻を完成させることもできなかった。

 GHQにより川南工業を追われた川南だったが、追放後も陰から川南工業をコントロールしようとしていた。経営陣の内紛と労働争議により混乱した川南工業に対し、暴力団や元軍人を組織して介入している。元海軍航空参謀で後に航空幕僚長、参議院議員となる源田実も香焼島炭鉱所長として雇用されていた。

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 1951年に川南が追放解除となり復帰した時、折しも日本は朝鮮戦争特需の時期だったが、川南は受注した兵舎の注文をキャンセルされるなど、この波に乗ることはできなかった。結果、1955年に川南工業は破綻。以降も名目上の再建破綻を繰り返す。

香焼島で戦後に解放された連合軍捕虜。香焼島造船所は最も多くの捕虜を使用した造船所で、全男子作業員の12.5%を占めていた

クーデター計画と摘発

 会社経営への意欲を失った川南は、政治の世界に関心を示すようになる。無税、無失業、無戦争の3つの無からなる「三無主義」という独自の政治思想を唱え、政界進出を考えるが、1960年の日米安全保障条約改定反対運動の激化などから、川南は日本に共産革命が迫っていると危機感を募らせ、その前に実力行使に出て三無主義による救国を考えるようになった。要はクーデターである。

 映画ロケと騙して自衛隊員の格好をさせた大学生バイト700名に国会を包囲させ、川南が関与する政治塾生を中心とした部隊を議場に突入させ、閣僚や議員を捕縛。革命委員会を設置し、戒厳令を敷いて三無主義政策を実行に移す計画であったが、2度に渡って延期しているうちに、1961年12月12日に警視庁公安部に一斉検挙され未遂に終わった。戦後唯一の右翼クーデターである三無事件として知られている。

三菱重工業長崎造船所香焼工場の100万トンドック ©時事通信社

川南工業の夢の跡

 首謀者である川南は公判中の1968年に死亡。奇しくも同年、三菱重工業は香焼島造船所跡地を取得し、これが香焼工場となる。1960年代に香焼島は埋め立てで九州と地続きになっており、すでに島ではなくなっていた。

 また、三無事件前に川南は紀尾井町の旧伏見宮邸跡地を所有しており、ここに事務所を構えていたが、川南と同郷の実業家の大谷米太郎に売却する。この大谷が政府の依頼に応じて建設したのが、現在のホテルニューオータニである。

 かつて、川南工業が香焼島造船所を取得した際、松尾造船から施設を引き継いでいるが、三菱重工業は川南時代の施設を引き継ぐことなく新造して1972年に香焼工場を開設している。世界最大級の全長約1キロメートルの100万トンドックを備えた高度経済成長の夢である香焼工場は、今後どのように受け継がれていくのだろうか。

三菱重工が長崎造船所香焼工場を売却 元オーナー川南豊作がたどった数奇な運命

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