いまから20年前のきょう、1997年4月10日、作曲家の黛敏郎が68歳で亡くなった。日本における電子音楽の第一人者である黛は、1964年の東京オリンピックでは、日本各地の梵鐘(ぼんしょう)の周波数分析を基礎とした楽曲「オリンピック・カンパノロジー」を手がけ、開会式で流された。この手法は、彼が代表作「涅槃交響曲」(1957年)ですでに試みていたものだ。
電子音楽をはじめ前衛的、実験的な作品を手がける一方で、黛の存在が広く周知されたのは何といっても、1964年開始のテレビ番組『題名のない音楽会』での司会者としてだろう。そのかかわりは、開局まもない東京12チャンネル(現・テレビ東京)が、東京交響楽団を使って新しい音楽番組を始めるにあたり、相談を受けたのがきっかけだった。
ちなみに、放送開始にあたっては、番組名がなかなか決まらなかったらしい。結局、何回目かの打ち合わせで、みながすっかり疲れ果てアイデアも出なくなったとき、黛が半ばなげやりに「いっそのこと『題名のない音楽会』というタイトルにしたら……」と言ったことから、その名に落ち着いたという(黛敏郎『題名のない音楽会』角川文庫)。『題名のない音楽会』は、開始当初より出光興産がスポンサーにつき、その後、NET(現・テレビ朝日)へ移った。黛は亡くなるまでその司会を務めている。
黛の葬儀では、彼の東京藝大時代からの親友で、ホルン奏者の千葉馨が弔辞を読んだ。そこにはこんな言葉もあった。
「吉野の山伏さんたちの中に、僕を『題名のない音楽会』で参加させてくれたのも、僕にとっては重要な出来事だった。彼らが吹く修験道の法螺の響きには、日本人の吹くホルンの音を探している僕の耳や心を無限に解放してくれる力があった」(『文藝春秋』2011年1月号)
同番組では初期より、クラシック以外にもフィールドを広げようと、ポピュラー音楽や歌謡曲、あるいは民謡なども積極的にとりあげられた。そこには、音楽家や愛好者たちがややもすると一般社会とは隔絶したところに音楽を見がちであることへの、黛の疑念があった。『題名のない音楽会』が、彼のめざしたとおり、音楽を狭い世界から解放するのに貢献したことは、千葉の言葉からもうかがえよう。同番組は黛の没後も継続し、司会者をたびたび交替しながら、開始からすでに半世紀を超えた。