いまから100年前のきょう、1917年4月17日(当時のロシア暦では4月4日)、ロシアのボリシェビキ党(社会主義の一政党)の指導者レーニンは、亡命先のスイスから帰国して一夜が明けたこの日、首都ペトログラード(現・サンクトペテルブルグ)での集会において、党のとるべき革命戦略の要綱を発表した。いわゆる「4月テーゼ」である。
その約1カ月前の2月革命で帝政が倒れ、新たに発足した臨時政府にも社会主義政党は参加していたが、それらはあくまで西欧的な資本主義と議会制民主主義を志向していた。これに対しレーニンは、議会制共和国ではなく、労働者と農民が権力を握る「ソヴィエト共和国」の樹立を訴え、資本主義や私的所有権を否定した。こうした彼のあまりに急進的な考えに、同志や弟子たちさえも困惑する(池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』岩波新書)。
4月19日のペトログラードのボリシェビキ党の市委員会は、レーニンのテーゼを13対2で否決した。しかしそれから約1週間後、4月27日の党の全市会議では、臨時政府を非難し、「全権力をソヴィエトへ」と呼びかけるレーニンの提案が37対3で可決された(松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』河出文庫)。こうしてレーニンはごく短期間のうちに多くの支持を獲得し、社会主義革命に向け、ボリシェビキ党を率いていくことになる。
1907年より10年にわたり亡命生活を送ったレーニンは、この間、第一次世界大戦の勃発によりスパイ容疑で捕えられ、釈放後、スイスに移った。1916年から翌年、2月革命の報を受けて帰国の途に就くまではチューリッヒに滞在している。ちょうどそのころ、彼が妻のクルプスカヤと居を構えたのと同じ地区に、若い亡命芸術家たちによって「キャバレー・ボルテール」が開店した。その芸術家たち――ルーマニア出身のトリスタン・ツァラ、ドイツ出身のフーゴー・バル、リヒャルト・ヒュルゼンベック、アルプ、ハンス・リヒターのグループは、この店を拠点にさまざまなパフォーマンスを行なっていた。彼らの活動は、やがてダダイズムという芸術運動に発展し、欧米各地へと広がっていく。
ソ連末期の1989年、フランスの美学者ドミニク・ノゲーズは『レーニン・ダダ』(鈴村和成訳、ダゲレオ出版)と題する著作で、レーニンがキャバレー・ボルテールに出入りし、ダダの誕生にもかかわっていたとする驚くべき仮説を立てた。そもそもダダという名称も、店内で披露される音楽やダンスに、レーニンが興奮して手を打ちながら「ダー! ダー! ダー! ダー!」と叫んでいたことから着想を得たものだと、ノゲーズは書くのだが……。信じるか信じないかは、あなたしだい。