いまから130年前のきょう、1887年3月12日、ロシア・ロマノフ王朝の皇帝・アレクサンドル3世の暗殺計画が発覚、首謀者らが捕えられた(当時のロシア暦では2月28日)。
アレクサンドル3世は、その6年前の1881年、父帝・アレクサンドル2世の暗殺にともない即位した。それだけにテロリズムとの闘いに全力を挙げる。危険人物の取り締まりと処罰だけでなく、大学など高等教育機関を「テロの温床」と見なしてその自治を制限し、また検閲も強化するなど、あらゆる手を尽くした(土肥恒之『よみがえるロマノフ家』講談社選書メチエ)。
先帝を暗殺したのは「人民の意志」派という組織で、当然ながら徹底的に弾圧された。大きな打撃を受けた同派を、やがて再興しようとする動きがロシア各地で起こる。アレクサンドル3世の暗殺を計画したのは、そのうちサンクト・ペテルブルグ大学の学生たちが結成した「人民の意志・テロリスト・フラクション」と称するグループだった。
グループの中心となったのは、ピョートル・シェヴィリョフとアレクサンドル・ウリヤーノフという動物学科の学生である。彼らは、当時の首都サンクト・ペテルブルグのネフスキー大通りで、皇帝に投弾するつもりだった。しかし、外套の下に爆弾を入れて徘徊していたところを逮捕される。
ウリヤーノフは獄中で母親と面会し、謝りさえすれば死刑を取り消してもらえると説得されたが、「決闘のとき先に発砲しておいて、相手の番になったとき、撃たないでくれと言えますか」と言って断ったという(松田道雄『世界の歴史 22 ロシアの革命』河出文庫)。けっきょく彼は、逮捕から3ヵ月後の5月20日、絞首刑に処された。
このウリヤーノフの4歳下の弟が、ウラジミール・ウリヤーノフ、のちにソビエト連邦を建国するレーニンである。当時17歳だったレーニンに、兄の死が与えた衝撃は大きかった。この年、カザン大学に入学した彼は、まもなくして学生運動で逮捕され、退学処分となったのを機に、兄と同じく革命家の道を歩み始める。
一方、アレクサンドル3世は1894年に病死、帝位は長男のニコライに継承された。このニコライ2世の退位によりロマノフ王朝が終焉を迎えたのは、アレクサンドル3世の暗殺未遂事件からちょうど30年後、1917年3月15日のことである。