いまから50年前のきょう、1967年4月18日より3日間、寺山修司(当時31歳)主宰の演劇実験室「天井桟敷」が旗揚げ公演『青森県のせむし男』を東京・赤坂の草月会館ホールにて行なった。
天井桟敷は同年1月、寺山と当時の妻で映画女優の九條映子(のち今日子)、人気イラストレーターだった横尾忠則、早稲田大学の学生劇団「仲間」の演出家だった東由多加らによって結成された。
結成の発端は、東ら「仲間」のメンバーの熱心な勧めだった。これを受けて寺山は、ちょうど自宅前に建ったばかりだったマンションに広い部屋を借り、劇団を始めることにした。天井桟敷の名は、結成に向けて準備を進めるなかで、寺山が「昔の見世物小屋をのぞいたような、賑わいと郷愁を感じさせる名前がいいなあ」と言ったのに対し、横尾忠則が「それって、天井桟敷の熱気じゃない?」と答えたことから決まったという(九條今日子『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』角川文庫)。天井桟敷とは、劇場の後方最上階の安価な席のことで、寺山のなかにはフランス映画『天井桟敷の人々』のイメージもあったとされる。
旗揚げ公演の『青森県のせむし男』は、母子の関係をテーマに、浪花節の形式をとった作品だった。当時18歳の浪曲師・桃中軒花月がホールいっぱいに声を響かせ、丸山(現・美輪)明宏、新人の萩原朔美が出演する。丸山の出演は、寺山の希望から、九條が直談判して実現した。その役は「醜悪な老女」。九條は丸山とつきあいがあったとはいえ、そんな役で出演依頼をするのはしのびなかった。だが、当人はもともと寺山のファンで、脚本を読むと二つ返事で承諾したという。
天井桟敷は旗揚げにあたって、新聞に「奇優怪優侏儒巨人美少女等募集」と広告を打って出演者を募集した。「見世物の復権」を標榜した寺山が求めたのは、プロフェッショナルな俳優ではなく、特異な肉体を持つ者たちだった。
『青森県のせむし男』は、多くの立見客が出る盛況となり、翌5月にはアートシアター新宿文化で再演された。天井桟敷は67年中にはさらに『大山デブコの犯罪』、丸山主演の『毛皮のマリー』を上演し、話題を呼ぶ。これ以前より寺山は、短歌・詩・評論・エッセイなど多才ぶりを発揮していたが、そこへ新たに演劇が加わった。彼はいわば演劇の「外部」の立場から出発し、以後も既存の演劇に揺さぶりをかけるような作品を次々と発表することになる。