「体操ニッポン、陽はまた昇りました」が生まれた舞台裏
メモにはこうある。
「1960年ローマオリンピックから団体がオリンピック五連覇 体操王国日本として世界の頂点に君臨しました モスクワ不参加で王座をあけわたしました。ロス、ソウル、バルセロナで銅メダルをとりましたがアトランタ10位シドニー4位 2大会連続でメダルを逃しました。体操ニッポンの陽は没したといわれましたが、去年のアナハイム世界選手権で銅」
冨田選手が鉄棒の演技を終えて、金メダルを確実にした瞬間に刈屋さんが発した言葉はこのメモ書きがベースになっていたのだ(詳細が気になる方は、映像を検索してみてください)。
文藝春秋の対談では、刈屋さんは次のようにその想いを明かしている。
「僕はアトランタ五輪の時に体操女子の実況として現地に行ったんです。団体男子の決勝も観に行って、日本が惨敗した時に、ある国のコーチが『体操日本の陽は没した』と言ったんですね。それを聞いて僕は本当に悔しくて。もし再び日本が金メダルを獲ることがあったら『体操ニッポン、陽はまた昇りました』と言おうとその時心に決めたんです」
その想いは8年後のアテネ五輪の舞台で結実した。
刈屋さんの「あんちょこ」からは「美しい体操」を標榜した体操ニッポンへの「情熱」が伝わってくる。
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刈屋さんと冨田さんの対談「アテネに『栄光の架橋』がかかった日」は、「文藝春秋」1月号および「文藝春秋 電子版」に掲載されている。
アテネに「栄光の架橋」がかかった日