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ロッテ・佐々木朗希が「目標とする投手」に田中将大の名前をあげた理由

文春野球コラム ウィンターリーグ2019

2019/12/26

 2013年11月3日。マーくんがマウンドに上がった。イーグルスの故星野仙一監督が球審に投手の交代を告げる。するとおなじみの登場曲が流れ、誰もが田中将大投手の登場を確信した。まだ場内アナウンスがコールされる前にスタジアムのムードは最高潮に達した。そして名前がコールされファンはみんなでFUNKY MONKEY BABYSの「あとひとつ」を謳った。日本シリーズの名場面は数多くあれど2011年の東日本大震災から復興に向けて頑張っていた多くの日本人はこの光景を目にして感動を覚え、勇気が湧いた。プロ野球はファンに勇気を与えることが出来る。日本プロ野球界の多くの人が確信した瞬間であった。そしてこの光景を目にした多くの人も肌で感じた。

絶対エースの投球に感動を覚えた12歳の誕生日

 月日は流れた。岩手県立大船渡高校に令和の怪物の異名を持つ投手が注目を集めるようになっていた。佐々木朗希投手はドラフト会議で千葉ロッテマリーンズが交渉権を獲得し、11月30日に契約が合意。12月9日に新宿のロッテ本社で新入団会見にのぞんだ。

 これまで「目標としている投手」を聞かれても明確な回答をすることがなかった若者はこの会見で初めてニューヨーク・ヤンキースの田中将大投手の名前を堂々と口にした。同じ岩手県出身のロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手の名前が挙がると想定していたメディア、関係者も多かった中でマーくんの名前を挙げた。

新入団会見で「ササキのマーチ」を手に挨拶する佐々木朗希 ©梶原紀章

 それは小学生の時に東日本大震災を経験した若者にとっては必然の回答だった。震災の影響で陸前高田から大船渡に移住。仮設の住宅生活の中で見たテレビの中でいつも活躍をしていたのはイーグルスのエース・田中だった。2011年は19勝で孤軍奮闘の働きを見せた。そして迎えた2013年。田中は24勝0敗という完ぺきな成績を挙げ、球団創設初のリーグ優勝に導くとクライマックスシリーズ、日本シリーズでも活躍した。

 ジャイアンツとの日本シリーズ第7戦。両軍王手で迎えたゲームはイーグルス3点リードで最終回を迎え前日の第6戦で160球を投げながら完投負けを喫していた田中は最終回のマウンドに上がる。誰もが予想さえ出来なかった連投。しかし、それは東北のファンへのエールを込めた炎のマウンドだった。11月3日、この日が誕生日だった佐々木はこの場面をテレビで見ている。バースデーだった1日の細かい事ははっきりとは覚えていない。ただイーグルスの絶対エースの投球に感動を覚えた事だけは明確に意識の中枢に残っている。

「野球で勇気や感動を与えられる投手になりたいと思っています」。佐々木は様々なインタビューで必ず口にするフレーズである。それは自身が小学生の時にテレビを見て感じた体験が原点としてある。