いまから63年前のきょう、1954(昭和29)年4月26日、黒澤明監督の映画『七人の侍』(東宝製作)が封切られた。7人の侍(演じたのは志村喬・稲葉義男・加東大介・千秋実・宮口精二・木村功・三船敏郎)が百姓に雇われ、村を襲う野武士たちに戦いを挑むという同作は、ダイナミックなアクションシーンにより日本映画史に金字塔を打ち建てる。
このとき黒澤と小國英雄とともに脚本を手がけた橋本忍によれば、同作の構想はその2年前、1952年12月にさかのぼる(以下、橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』文春文庫を参照)。橋本は、黒澤から新たな監督作品の脚本をまかされ、それまでに2作に着手したものの、あいついで頓挫していた。
2作目は「日本剣豪列伝」というオムニバスだった。黒澤は橋本の書いたその脚本を却下したあとで、ふと「この剣豪伝に出るような有名人はともかく、金のない兵法者はどうやって武者修行していたのだろうか?」と疑問を口にする。これを受けて橋本はさっそく東宝文芸部に問い合わせた。後日、文芸部員から調査結果を伝えられたプロデューサーの本木荘二郎が、黒澤邸に赴く。
本木の報告によれば、室町末期から戦国の兵法者は、道場や寺院を訪ねれば食事も宿泊もさせてもらえたので、金がなくても全国を自由に動き回れたとのことだった。それでも、行った先に道場も寺もなかったときはどうしたのか? この質問にも本木はあっさり答える。戦国の世は全国的に治安が悪く、山野には盗賊や山賊がたむろしていた。だからどこかの村に入って、一晩寝ずに、夜盗の番さえすれば、百姓が飯を食わせてくれた――ようするに「百姓が侍を雇った」というのだ。これに黒澤も、同席した橋本もピンときて、一気に構想が固まる。百姓が雇う侍の数も、7人とその場で決まった。
このあと橋本と黒澤は「暮れも正月もなしに」『七人の侍』の第一稿を書き上げると、小國英雄も交えて決定稿にするため、1953年1月より熱海の旅館でカンヅメになった。クライマックスの決闘シーンを書いている最中には、旅館の女中が部屋に入るのを躊躇したという。それというのも、旅館で時折開かれる碁や将棋の名人戦の比ではない、すさまじい殺気を、原稿を書く黒澤や橋本から感じ取ったからだった。
1953年3月の脱稿時、脚本はペラ(200字詰め原稿用紙)で504枚に達していた。「シナリオさえ面白く書けば、映画は面白くなり、長さは関係ない」と橋本たちが腹を据えたためだ。このあと橋本と黒澤は検討の末、前段を少し切って460枚としたが、全体の構成は変えなかった。その信念が間違いでなかったことは、時間にして3時間27分におよんだこの映画に、人々が釘付けとなったことで証明される。