長距離のコースを複数の区間に分け、各走者がたすきを手渡しながら合計タイムを競う駅伝競走。その始まりは100年前のきょう、1917(大正6)年4月27日より3日間かけて実施された東西対抗の「東海道駅伝徒歩競走」にさかのぼる。このとき選手たちは、京都・三条大橋から東京・上野不忍池までの516キロメートルを、23区間に分けて競走した。主催は読売新聞社で、「駅伝」の名は、このとき同社の社会部長だった歌人の土岐善麿が、東海道五十三次にちなんでつけたものとされる。

 ロードをリレーする競技をつくって長距離走の選手強化を図ろうという考えは、日本初のオリンピック選手のひとり金栗四三(かなくり・しそう)も持っていたと伝えられる。金栗は1912(明治45)年のストックホルムオリンピックのマラソンに出場したものの、途中棄権していた。その後、後進の育成に注力することになった彼は、1920(大正9)年、選手強化を念頭に関東の各大学に呼びかけ、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)を実現させる。

パリ五輪で走る金栗四三 ©共同通信社

 箱根駅伝は1956(昭和31)年より現在と同じ1月2日・3日の両日に開催され、正月恒例の大会となった。すでに1953年からNHKラジオが全国放送を始めており、関東ローカルの大会から全国的にも知名度が上がっていく。しかし、箱根駅伝が国民的行事となり、日本の陸上界におけるステイタスを確立したのは何よりも、87年に始まった日本テレビでの中継によるところが大きい。テレビ中継自体はこれ以前、79年より東京12チャンネル(現・テレビ東京)で行なわれていたが、その内容はダイジェスト版というべきもので、生中継は最後のゴール地点だけだった。その放映権が日本テレビに移ったことで、スタートからの生中継となり、89年からはそれまで技術的に中継が難しかった5・6区間も含め完全生中継が実現する。

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 こうして箱根駅伝の地位は高まったが、陸上界には批判もある。たとえば、関東の大学陸上部では、箱根駅伝の準備に力を注ぐようになった分、マラソンやトラック競技の強化が後回しにされる傾向が強まったという(生島淳『駅伝がマラソンをダメにした』光文社新書)。もともと選手強化を念頭に創設された箱根駅伝が、そうした“弊害”を一面ではもたらしているとは皮肉な話である。

 ちなみに、箱根駅伝の最優秀選手に贈られる「金栗四三杯」にその名を残す金栗四三は、2019年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』(宮藤官九郎脚本)の主人公のひとりに選ばれ、中村勘九郎が演じることが決まっている。

「いだてん」制作記者会見で(中央が中村勘九郎) ©共同通信社