なぜ人は勉強するのか? 勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか? 思想界をリードする気鋭の哲学者が、独学で勉強するための方法論を追究した『勉強の哲学 来たるべきバカのために』が、ジャンルを超えて異例の売れ行きを示している。近寄りがたい「哲学」で、難しそうな「勉強」を解いた先に広がる世界とは? 本書の読みどころを5日間連続で特別公開します。
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自由になるということ。それは、いまより多くの可能性を考え、実行に移せるような新しい自分になるということです。新たな行為の可能性を開くのです。そのために、これまでの自分を(全面的にではなくても)破壊し、そして、生まれ直すのです。第二の誕生です。
会社や家族や地元といった「環境」が、私たちの可能性を制約している、と考えてみる。
生きることは、環境から離れては不可能です。私たちはつねに、何かの環境に属している。特定の環境にいるからこそできることがあり、できないことがある。圧縮的に言えば、私たちは「環境依存的」な存在であると言える。
概念を定義しながら、話を進めていきましょう。まず、「環境」と「他者」から。
本書では、「環境」という概念を、「ある範囲において、他者との関係に入った状態」という意味で使うことにします。シンプルには、環境=他者関係です。小さい規模では、「恋愛関係」や「中学時代の仲間内」も、環境として捉えてください。大きなものでは、「日本社会の全体」や「インターネットの世界」、「グローバル市場」などもそうです。
「他者」とは、「自分自身ではないものすべて」です。普通は「他者」と言うと、他の人間=他人のことですが、それより意味を広げてください。親も恋人も、知らない人も、リンゴやクジラも、高速道路も、シャーロック・ホームズも、神も、すべて「他者」と捉えることにします。こういう「他者」概念は、とくにフランス現代思想において見られる使い方です。
環境的な制約=他者関係による制約から離れて生きることはできません。
環境のなかで、何をするべきかの優先順位がつく。環境の求めに従って、次に「すべき」ことが他のことを押しのけて浮上する。もし「完全に自由にしてよい」となったら、次の行動を決められない、何もできないでしょう。“環境依存的に不自由だから”、行為ができるのです。
「何でも自由なのではない、可能性が限られている」ということを、ここまで「不自由」と言ってきましたが、今後は、哲学的に「有限性」と言うことにしましょう。逆に、「何でも自由」というのは、可能性が「無限」だということです。
無限vs.有限、この対立が、本書においてひじょうに重要になります 。
無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。
私たちの課題は、有限性(=不自由)とのつきあい方を変えることです。有限性を完全に否定するのではありません。有限性を引き受けながら、同時に、可能性の余地をもっと広げるという、一見矛盾するようなことを考えたいのです。
有限性とつきあいながら、自由になる。
まずは抽象的にそう言わせてください。おいおいその意味は明らかになります。
千葉雅也(ちば・まさや)
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生変化の哲学』、『別のしかたで――ツイッター哲学』、訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』(共訳)がある。