なぜ人は勉強するのか? 勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか? 思想界をリードする気鋭の哲学者が、独学で勉強するための方法論を追究した『勉強の哲学 来たるべきバカのために』が、ジャンルを超えて異例の売れ行きを示している。近寄りがたい「哲学」で、難しそうな「勉強」を解いた先に広がる世界とは? 本書の読みどころを5日間連続で特別公開します。
◆◆◆
私たちは、いつでもつねに、環境のノリと癒着しているはずです。
会社のノリ、育った家族のノリ、地元のノリ……自分にとって、とくに支配的なノリもあるでしょう。たとえば、中学時代の仲間内のノリが何をするのでもベースになっていて、その延長上にいまの仕事のやり方もある、というような。
たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、“分析的には”意識されていない。
なんとなく、ノっている……その状態では、何をするのが良いと“されている”のか、何をしたらダメだと“されている”のか、というように、背後にあるコード=「こうするもんだ」を、退(ひ)いて客観視することができていません。しかし、いかなるコードも、普遍的なものではないのだと気づいてほしいのです。特定の環境の「お約束」にすぎません。そういう意識を、通常は十分にもっていない。刷り込まれた「こうするもんだ」を、他にやりようがないみたいに思い込んでいたりする。すっかり「その会社の人」とか「その地元の人」に“なって”いる。
自分は、環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている。
ならば、どうやって自由になることができるのでしょう?
丁寧に考える必要があります。というのも、環境から完全に抜け出すことはできないからです。完全な自由はないのです。ならば、どうしたらいいのか。そこで、次のように考えてみるのはどうでしょう――環境に属していながら同時に、そこに「距離をとる」ことができるような方法を考える必要があるのだ、と。
その場にいながら距離をとることを考える必要がある。
このことを可能にしてくれるものがある。
それは「言語」です。どういうことでしょうか?
千葉雅也(ちば・まさや)
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生変化の哲学』、『別のしかたで――ツイッター哲学』、訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』(共訳)がある。