なぜ人は勉強するのか? 勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか? 思想界をリードする気鋭の哲学者が、独学で勉強するための方法論を追究した『勉強の哲学 来たるべきバカのために』が、ジャンルを超えて異例の売れ行きを示している。近寄りがたい「哲学」で、難しそうな「勉強」を解いた先に広がる世界とは? 本書の読みどころを5日間連続で特別公開します。
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不満や苦しみがあっても、そこから抜け出そうと何かを始めるのは難しいことです。
一度できあがった生活習慣は、ひじょうにしぶとい。根本的な心理として、可能なかぎり何でも「痛(いた)気持ちいい」ものとしてマゾヒズム的に耐えてしまおうとする傾向がある。極端には、ここでこうして生きているのは自分の運命だ、と捉えて耐え忍んでしまうかもしれない。
生(せい)とは、他者と関わることです。純粋にたった一人の状態はありえません。外から影響を受けていない「裸の自分」など、ありえません。どこまで皮を剥いても出てくるのは、他者によって「つくられた=構築された」自分であり、いわば、自分はつねに「着衣」なのです。
自分は「他者によって構築されたもの」である。
この肉体は、両親、さらに前の世代の遺伝子がシャッフルされたものです。遺伝的な傾向があった上で、成長過程において他者と関わりながら、考え方や好き嫌いができていく。たとえば、サッカー観戦が好きだとして、それは必ずしもひとりでにそうなったわけではない。それが「他者依存的」に構築された好みであることを、やろうと思えば、ある程度は客観視できるでしょう。父親が週末はサッカー観戦をしていたから、自分もいつしか好きになっていた、などの事情がある。また、人間だけでなく、物理的環境や、架空のキャラクターなど、広い意味での他者たちが自分の構築に関わっています。
裸の自分などないというのは、注意してほしいのですが、「個性」がないということではありません。私たちは個性的な存在です。しかし、一〇〇%自分発の個性はない。個性とは、私たちひとりひとりが「どういう他者とどのように関わってきたか」の違いなのです。個性は、他者との出会いで構築される。自分の成分としての他者が、自分の「欲望」や「享楽」の源泉になっている。私たちは個性的だが、個性とは「他者依存的」なものである――本書では、この考え方をつねに念頭に置いてください。
そして、言語という存在。
言語を使えている、すなわち「自分に言語がインストールされている」のもまた、他者に乗っ取られているということなのです。