「リンゴ」でも「これは美しい」でも、当たり前ですが、言語は自分自身ではない。言語は他者です。そして言語は、周りの他者(これは「他人」の意味)からインストールされたものです。他者が言葉をどう使うかを真似ることで、言語習得をしたわけです。
言語は、自分が生まれる以前からの「用法」を真似するという形でインストールされた。同様に、すべての他者もまた、他者による用法を真似して、言語を使えるようになっている。
そういう言語習得の過程で私たちは、他者から、ものの考え方の基本的な方向づけを受けてしまいます。たとえば、何を「美しい」と言うのか、何が「遊び」であり何がそうでないのか……育った環境によって、用法=意味の範囲が異なりますね。
大げさに思うかもしれませんが、言葉のニュアンスの違いには、何か偏(かたよ)った価値観(イデオロギー)が含まれていると捉えるべきです。
すなわち、言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられるのです。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのです。言語習得と同時に、特定の環境でのノリを強いられることになっている。
言葉の意味は、環境のコードのなかにある。
言葉は、実際に使われて初めて意味をもつ。本書は、こうした言語観を前提にして話を進めます。これは、ウィトゲンシュタインという哲学者の考えにもとづいています。
国語辞典に載っているのは、言葉の「本当の意味」ではありません。載っているのは、代表的な用法です。辞典とは、人々が言葉をどう使ってきたのかの「歴史書」なのです。
言語習得とは、ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベルで「洗脳」を受けるようなことなのです。これはひじょうに根深い。言葉ひとつのレベルでイデオロギーを刷り込まれている、これを自覚するのはなかなか難しいでしょう。だから、こう言わねばならない。
言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。
千葉雅也(ちば・まさや)
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。現在は、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生変化の哲学』、『別のしかたで――ツイッター哲学』、訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』(共訳)がある。