ファイターズは連敗を10で止め、やっと長いトンネルを脱した。泣いたよ、中田翔の1号ホームラン。10連敗は長かった。何しろ10回連続で負けたのだ。チームも元気なくなるが、スタンドで見ている僕らも元気がなくなる。僕は自分が一体、球場で何連敗を実体験しているだろうと思い返してみたが、たぶん90年代東京ドームの6連敗が最長だ。

 何があったかあんまり覚えていないのだが、とにかく「ガンちゃん」こと岩本勉が福岡ダイエーの吉永幸一郎にぽんすかホームラン打たれたのだけ覚えている。6連敗だから6回東京ドームへ行ったのだ。で、6回負けて帰ってきた。意地だった。お金払って球場へガマンしに行ってた感覚だ。

 10連敗の只中、4月26日(水)はイースタンリーグ楽天戦(鎌ヶ谷)を見に行った。1軍の窮地を救ってくれる選手はいないかなぁと思ったのだ。斎藤佑樹が先発だった。風の強い日で投球に影響あるなと思ったけど、それにしても制球がバラバラだった。初回いきなり7失点。伊志嶺忠に満塁弾を喫した。まぁ、その後、立ち直って5回を投げ切ったけど、残念な内容だった。そうしたら打線のほうは活発(淺間大基が復調していた!)で、1点差まで追いかけたのだ。リリーフに立った白村明弘がひどかった。また満塁弾を浴び、試合は修復不可能になる。斎藤佑樹、白村明弘が「早慶満塁被弾」という麻雀なら役の付きそうな競演(?)である。既に連敗で凹んでるのにファームでもボロ負けを見てしまった。

ADVERTISEMENT

 そんなときだ、「絵理花」があったらなぁと痛切に感じるのは。「絵理花」があったら愚痴をこぼしに行けた。

ヒチョリの実家は野球バカの町道場?

 文春野球コラムのGW企画が「野球メシ」なので、僕は思い出の店を書くことにする。ファイターズ時代、応援歌の前奏パートで「焼肉絵理花 日暮里駅前 歩いて5分の一等地 」と歌われた、森本稀哲のご実家が経営する焼肉屋さん。ご両親が「体力の限界」と店をたたまれたのが4年前になるだろうか。ヒチョリの引退より早かった。

 狂牛病やユッケ食中毒騒動にもビクともせず、野球ファンのオアシスとして愛されてきたが、今はもう建物自体がなくなってしまっている。駅から歩いて角を曲がって、いつも通り「絵理花」の看板が出てるものと思って足が止まる。あぁ、もう、「絵理花」はないんだなと思うのだ。寂しくてたまらない。

野球ファンのオアシスとして愛されていた「絵理花」 ©えのきどいちろう

 僕が「絵理花」を知ったのは日暮里に住むハムファンからの連絡だった。1998年ドラフトの直後だった。「4位に指名された帝京の森本稀哲のご実家が焼肉屋さんで『ドラフト指名御礼・おひとり様2千円均一デー』をやるらしいです。貼り紙が出てるから是非行きましょう。うまく行けば森本選手ご本人に逢えるかもしれませんよ」。そりゃ行くでしょう。我が家からはクルマで30分かからない。仲間と大挙して押しかけたら「こんなに沢山ファイターズファンがいらっしゃるんですね。息子をこれからよろしくお願いします」とお父さんが挨拶に来てくれた。

 さぁ、それからだ。近所なのをいいことにちょくちょく顔を出して、行くたびにポスターとかサイン色紙を壁に貼ったり、球団グッズをさりげなく店内にディスプレーして帰った。元々は地元のお客さんが来るフツーの焼肉屋さんだったのだ。それをコツコツ、パ・リーグ色に染めていった。ゲリラ活動だ。

 そのうちに仲間が協力するようになり、気がつくと他の野球客も参加するようになった。「町の焼肉屋さん」は見る見る野球色を強め、「手作りのスポーツ(焼肉)バー」に変貌していく。階段を上がると巨大な球団旗が迎えてくれる。球場やキャンプのスナップや、新聞の切り抜きが貼ってある。ヒチョリの入団会見の写真、打席のヒチョリを描いた油絵、等身大の小笠原道大・広告ボードも展示されている。ヒチョリのルーキーイヤーが終わる頃には「知らない人がぶらっと来たらたらギョッとする」くらいにはディスプレーが増えた。

 そして、ついに店内のTVモニターがスカパーにつながる。まだファイターズの北海道移転前だ。僕は当たり前のようにTVでファイターズ戦が見られて、いくらパ・リーグやファイターズネタで盛り上がっても嫌がられない店に初めて出会った。野球客どうしのつながりが加速度的に深まっていく。「絵理花」は野球バカの集う道場のようになっていった。行けば必ず何らかの野球バカがいる。

「バカ・マイレージ」という言葉を考案したのもこの頃だったと思う。皆、野球にかこつけてとんでもない場所まで出かけていくのだ。バカな移動をすればするほど「バカ・マイレージ」が貯まるということにした。「バカ・マイレージ」のポイントが沢山貯まったら、よく知らないがシンガポールくらいは行けるらしい(うそ)。