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92年、NYで日本語の歌が支持された……野宮真貴が語る、ピチカート・ファイヴが世界に羽ばたくまで

渋谷系歌姫、還暦になる。 #3

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結婚そして出産 息子は医学部で勉強中

 結婚したのは1996年。人生でいちばん忙しい時期に結婚し、出産しました。

 結婚は計画していたわけじゃないんです。ただ、仕事を通じて「ああ、いいな」と思った人と出会って。私から言わなければ何も起こらないと思ったので、自分からアプローチしました。彼はテレビ局の人で、出演していたテレビ番組で知り合ったんです。でも、付き合い始めたら、会社を辞めて世界放浪の旅に出ちゃった(笑)。

 その時期、ピチカートもワールドツアーでイギリス、ドイツ、フランスとヨーロッパをツアーしていたので、よく海外で落ち合いました。ワールドツアーとはいえ、最小人数で回っているので常に人出が足りなく、楽器運びを手伝ってもらったり、通訳をしてもらったり、何かと手助けをしてもらいました。まるでスタッフみたいに(笑)。

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 当時私は30代半ばを過ぎた頃。このまま一生結婚しないかもしれないと思ったこともあったけれど、子供ができたとわかったときは迷いはなかった。ピチカート・ファイヴもワールドワイドで活動していたけど、これは私の人生。だって、なんとかするしかしょうがないわけで。生まれちゃうんだからって(笑)。そういうところはすごく楽観的なんです。できるかどうか思い悩むよりも、どうすればそれができるかを考えた方がいいんですよ。人生は前に進むしかないのでね。

 その後、妊娠5ヵ月でツアーを回り、7ヵ月のときに「ベイビィ・ポータブル・ロック」の新曲でCMの撮影もあって。極寒の2月の撮影でしたけど、Aラインのワンピースやギターで大きいお腹を隠しつつ撮影しました。1ヵ月くらいお休みを頂いて、その間にアルバムをリリースしていたので、世間的には休んでるようには見えなかったでしょうね。出産したことについては公にしなかったんです。別に普通のことだし、表立って発表することでもないなって。

1996年発売のシングル「ベイビィ・ポータブル・ロック」。車のCM曲となりヒットした。

 子育てと仕事の両立については、ワールドツアーもあったので、生まれる直前に両親が住むマンションの上の階に引っ越して。家族の協力がなければ無理でした。ワールドツアーに出ると、1ヵ月半くらい家を空けることになるんですが、家に戻ると子供が成長していて驚くという(笑)、そんな感じの日々でしたから。夫も育児は積極的に手伝ってくれました。

 息子も23歳になりました。医学生でいまは5年生。医学部に進学したと言うと、どんな教育をしたんですか? と聞かれることがあるんですが、教育方針なんて全然ないんです。そっちへ導いたわけでもないし。

 私の仕事場にもよく連れて行っていましたよ。そこにはミュージシャンもれば、スタイリストさん、ヘアメイクさんもいる、男も女もゲイの方もいる。意識的ではなかったけれど、世の中にはいろんな職業の人がいるし、いろんなタイプの人たちがいるんだよ、というのは見せてきたのかもしれない。

 ベースを買い与えたり、キーボードが家にあったり、ちょっと教えたりもしたけれど、結局、そっちには行かなかった。音楽を聴いたりライヴに行くのは好きですけど、そういうことよりも勉強が好きだったし、得意だったんじゃないかなと思います。

 子供は得意で好きなことを徹底してやればいいと思うんです。親はそれに触れる環境を作ってあげて、たくさん褒めて愛してあげる。私はすごく甘やかしますよ。だってそのうち親から離れていくわけだし、一緒にいられる時間は短いから、わがままもたくさん聞いてあげればいいって思うんです。

 いまはまだ一緒に暮らしています。最近、またお弁当を作ってるんです。中学高校と6年間お弁当を作って、そこからやっと解放されたと思ったけれど、なくなってしまうとそれはそれでちょっと寂しい。いまは病院でいろんな先生について勉強している最中。ご飯を食べる時間もなかなかないみたいで、お弁当がいちばんいいみたい。たまに作ってあげると、喜んでくれるんです。

 6年生が終わったら国家試験。もう勉強を始めてるみたいです。将来、何科に進むのかはまだ悩んでるみたい。私はぜひ耳鼻咽喉科の先生になってもらって、ずっと歌えるように喉のケアをしてくれたらいいなって思ってるんですけどね(笑)。