エイジレスでエレガンスなファッショニスタ野宮真貴さんが、2020年3月で還暦を迎える。「歌とおしゃれが大好き」な彼女は、一体どんな人生を歩んできたのだろう。内気な少女がロックに目覚め、「渋谷系の女王」と呼ばれるまでの半生を振り返ってもらった。『週刊文春WOMAN』創刊1周年記念号のインタビューに未収録トークを加え、3倍以上に拡大した完全版。(全3回の2回目/#1#3も公開中)

 

◆ ◆ ◆

デビューを目指したハタチの頃

 高校を卒業すると専門学校に進学しました。時代は70年代後半。音楽シーンにはパンクやニューウェイヴ、テクノポップとよばれる音楽が登場し、シャウトができない私でも歌える音楽にやっと出会えたと感じました。

ADVERTISEMENT

 中でも憧れたのは、日本のニューウェイヴバンド、プラスチックス。おしゃれでパンクなボーカルの佐藤チカさんが大好きで、「チカちゃんみたいに歌いたい!」と本格的なガールズバンドを組みました。私と妹と従姉妹と専門学校で知り合った女の子たちと5人で結成したテクノポップバンド「パズル」。デビューを目指し、オリジナル曲もたくさん作るようになりました。

1976年、中西俊夫、立花ハジメ、佐藤チカを中心に結成されたプラスチックス。‘79年にイギリスのインディーズレーベルからデビュー。翌‘80年、アルバム『WELCOME PLASTICS』で日本デビュー。欧米ツアーも敢行し、B-52’sやラモーンズ、トーキング・ヘッズとも共演を果たす。ボーカルの佐藤チカは‘80年代ニューウェイヴシーンのミューズと呼ばれた。
久保田慎吾、上野耕路、泉水俊郎らを中心とするニューウェイヴバンド、8 1/2(ハッカニブンノイチ)。‘78年結成、‘80年解散(写真は解散後の‘87年に発売されたアルバム『8 1/2』)。

 その頃の千葉では、糸井重里さんが言うところの「チャイバウェイヴ」(笑)が盛り上がっていました。「千葉のニューウェイヴ」という意味なんですが、サエキけんぞうさんや上野耕路さんのハルメンズ、久保田慎吾さんの8 1/2など、当時のアンダーグラウンドシーンの中心的存在だったバンドが千葉に集中してたんです。千葉が日本のニューウェイヴの震源地だったというか。

 で、私たちも、彼らとは練習スタジオが一緒だったので知り合いになって仲良くなって。音楽だけじゃなく、その周辺にはイラストレーターやグラフィックデザイナーなど、流行に敏感なカッコいい人たちがたくさんいたのもすごく刺激になったし、面白かった。

週刊文春WOMAN (vol.4 創刊1周年記念号)

 そして、私たちパズルはヤマハが主催するバンドコンテスト「イーストウェスト」のレディース部門に出場して準優勝、テレビのコンテストでも優勝。レコード会社からも声がかかりました。でも、デモテープを作ったものの、デビューする話になかなかならなくて。

 そんなとき、ハルメンズの方が先にデビューすることが決まって、私はレコーディングでコーラスをやってほしいと言われてやったんですね。すると、ハルメンズのディレクターから電話がかかってきたんです。「君、ソロでデビューする気はないの?」って。私は「はい、やります」と即答しました(笑)。もちろん、パズルで、5人組のバンドとしてデビューしたかったんです。でも、なかなかうまくいかなかった。みんなを裏切るカタチにはなるけれど、なんとしてもデビューしたいという気持ちが強かったんです。

佐伯健三(現・サエキけんぞう)を中心とするニューウェイヴバンドハルメンズ。デビューアルバム『近代体操』(‘80年)はムーンライダースの鈴木慶一がディレクション。野宮さんもコーラスで参加。

 当時は、専門学校も卒業してOLをやりながらの音楽活動でした。5時ちょうどにタイムカードを押して、スタジオへ行っては毎日リハをして。勤めていたのはコンピューターのプログラマーを派遣する会社で、神保町にある小さな会社でした。仕事は主に電話番。仕事をするふりをしながら、いつも歌詞を書いていましたね。

 でもあるとき、社内報を頼まれて1人で作ったことがあるんです。社員にインタビューしたり、イラストを描いたり、誌面を構成したり。「○○課の××さんが結婚しました」みたいな記事を書くわけです(笑)。それは結構、面白かったかも。1年ちょっとのOL経験。デビューが決まって円満退職しました。