エイジレスでエレガンスなファッショニスタ野宮真貴さんが、2020年3月で還暦を迎える。「歌とおしゃれが大好き」な彼女は、一体どんな人生を歩んできたのだろう。内気な少女がロックに目覚め、「渋谷系の女王」と呼ばれるまでの半生を振り返ってもらった。『週刊文春WOMAN』
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世界が支持したピチカート・ファイヴ的世界
海外でのライブは92年、ニューヨークで開催された音楽イベント「ニューミュージックセミナー」が最初でした。海外進出を考えていたわけではなかった。ニューヨークにいけるならいいやって、そんな軽い気持ちでイベントに参加して。ライブの内容もあえて日本でやっていることをそのまま、日本語で歌いました。
海外の観客はすごくシビアだと聞いていたので、どんな反応になるんだろうと不安もあったんですが、ものすごくウケたんです。それで、ああ東京でやっていることをやればいいんだなって。それから「ニューミュージックセミナー」には毎年参加するようになって。94年にはアメリカのレコード会社と契約、アメリカデビューも果たし、ワールドツアーが始まりました。
ライブは全部ソールドアウトでした。どこの会場でも熱狂的に受け入れてもらえました。「ツイッギー・ツイッギー」がパリコレで使われたり、『プレタポルテ』や『チャーリーズ・エンジェル』といった映画で使われたり。CMでもよく使われたんです。エリザベス・アーデンの香水のCMとか。イタリアのシスレーのCMでは「ゴー・ゴー・ダンサー」が使われて、私も出演しているんです。ニューヨークのバーニーズの店内でピチカートの曲が流れてきたときはとてもうれしかったと小西さんも言ってました。店員さんを捕まえて「これは僕の曲なんだ」と思わず言ったらしいんです。すごくうれしかったんでしょうね(笑)。
世界中のクリエイターや音楽マニアからとても支持されたというのは大きかったと思います。欧米の音楽を、欧米人の彼らが子供の頃からずっと聴き続けてきたポップスを、日本人の私たちも同じように聴いて育ち、それを再構築して洗練した形で提示したのがピチカート・ファイヴだったわけですから、彼らにウケたというのはある意味必然だった思います。あとはゲイの方々。細くて小さな私がインパクトのあるスタイリングをしたことで「東洋のバービードール」って言われましたから(笑)。まだSNSなんてない時代だったけど、もしもあの頃ツイッターやインスタがあったなら、どうなっていたんだろう。
東京にファッションやアートや音楽に敏感な人がいるように、世界にもそんな人はたくさんいる。そういう人たちがピチカート・ファイヴを支持してくれた。各会場には小西さんに似ているような人がたくさんいたんです(笑)。「好きな音楽を追及していれば世界中の音楽好きがそれを聴いてくれる」って細野晴臣さんが言っていましたが、ワールドツアーでそれを実感しました。
いちばんうれしかったのは、世界各地の会場で、みんなが日本語で歌ってくれたこと。私が歌う日本語が聞き取りやすく、カッコ良く聞こえるみたいなんです。「東京がクール、日本語がクール」と言われ始めた、最初の頃だったと思います。
ロックはシャウトができないから歌えなかった。でもその後のニューウェイヴの登場で、リズムや音程をどれだけキッチリ歌うことができるかというのが自分の歌のスタイルだとわかった。CMでよく使っていただけるのも、そういう部分があるからで、デジタル的に歌えるところに自分の良さがある。それを思いっきり発揮することができたのが小西さんのメロディであり、ピチカートの音楽だったんだなって。
例えば、リオのパラリンピック閉会式で使われた「東京は夜の七時」は、歌い上げるメロディではないんです。「ぼ・ん・や・り・テ・レ・ビ・を・観・て・た・ら」って、一音一音に言葉が割り振られていて、それをパキッと正確に歌うのが私の歌い方なんです。もともとエモーショナルに歌うタイプではないし、ソウルやブルースといったものは私の中にはない。言ってみれば、人間ボーカロイドみたいなものかもしれません(笑)。
だから、ピチカートのライブは「ショー」としてパッケージ化していたし、音はコンピュータの打ち込みで、映像ともシンクロしていたので、正確さが要求されるわけですが、それは私には向いていたんですね。小西さんが思い描く世界感をキッチリ再現できたのではないかと。
あと、実は小西さんが書く詞は時にとてもエモーショナルだったりするから、そのバランスが良かったとも思います。「死ぬ前にたった一度だけでいい、思い切り愛されたい」(「陽の当たる大通り」)なんて詞をサラッと歌えるのが、まあ才能と言えば才能なのでしょうね(笑)。