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シンガーとしてデビュー! したのはいいけれど……

 1981年、21歳のときにムーンライダースの鈴木慶一さんのプロデュースでデビューしました。デビューシングルの「女ともだち」は、曲は慶一さんで、詞は伊藤アキラさん。資生堂のシャワーコロンのCMタイアップがついて、すごく力を入れてもらいました。デビューアルバムの『ピンクの心』もムーンライダースが全面的にバックアップしてくれましたし、鈴木さえ子さんや松尾清憲さんも曲を書いてくれました。

 そして、後にピチカート・ファイヴがカバーして有名になった「ツイッギー・ツイッギー」はこのアルバムの収録曲。SPYの佐藤奈々子さんが作詞・作曲してくれたんです。奈々子さんは楽器をやらないので、脳内だけで曲を作るんです。それをプロデューサーの慶一さんに歌い、コードをつけてもらいながらカタチにする、その現場に私も立ち会ったんです。すごく面白かった。

野宮さんのデビューシングル「女ともだち」(作詞:伊藤アキラ/作曲:鈴木慶一)。1981年、ビクターより発売。

 いいアルバムだったし、いまでも大好きなアルバムです。でも結果が残せなかった。単純に「売れなかった」ということなんです。結果、1年で契約が終わってしまいました。

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 もともと、「ロック少女」じゃなく「ロック少年」になりたかった私は、当時、自分のことを「ぼく」と言ってたんですよね(笑)。そういうキャラクターとしてレコード会社も売り出そうとして、確かキャッチコピーは「半分少年・半分少女」だったかな(笑)。松田聖子さんが大ブレイクしてアイドル全盛の時代だったから、不思議キャラはわかりにくかったというのもあるのかもしれない。

1981年に発売されたデビューアルバム『ピンクの心』。サウンドプロデュースは、ムーンライダースの鈴木慶一と岡田徹。ハルメンズの佐伯健三や上野耕路、比賀江隆男、石原智宏などもソングライターとして参加。当時のニューウェイヴの空気がつめこまれた名盤。2010年、‘81年のデビューライブの音源を収録した『ピンクの心+2』をリイシュー。

 実は、「ぼく」は、パズルで一緒にやってたベースの子の影響なんです。彼女は本当に少年のような子で、出会った頃から自分のことを「ぼく」と言っていて、影響を受けたんですね。いまでこそアイドルで「ぼく」っていう子はわりといるし、「ぼく」という人称でみんな歌を歌ってる。AKBも欅坂もそうでしょ。私の「ぼく」は先取りし過ぎた「ぼく」だったのかも(笑)。

 デビューコンサートは青山のベルコモンズでやりました。当時としてはかなりおしゃれなアプローチ。そのときのサポートメンバーにギターの鈴木智文君とベースの中原信雄君がいて、1年で契約が終わってどうしようと相談したら、「じゃあ、一緒にバンドをやる?」って。それがバンド「ポータブル・ロック」の始まりでした。

 毎日3人で曲作りをしました。その頃、慶一さんの弟の鈴木博文さんが、羽田の実家に作ったスタジオで私たちのデモテープを録ってくれることになって、毎日のように羽田まで通いました。そして83年、慶一さんが「水族館レーベル」という音楽レーベルを立ち上げたので、そこからポータブル・ロックとして再びデビュー。その後、アルバムも2枚出すこともできました。

1981年、ソロデビュー後に鈴木智文、中原信雄と結成したバンド、ポータブル・ロック。徳間ジャパンより2枚のアルバム、『Q.T』(‘85年)、『ダンスボランティア』(‘87年)をリリースしている。‘86年発売のシングル「春して、恋して、見つめて、キスして」は鈴木さえ子が詞・曲を提供、化粧品のCMソングになった。

 ただ、当時はホントにお金がなくて(笑)。ソロデビュー後に千葉の家を出て、東京で1人暮らしを始めたんですが、事務所から月々出ていたお給料が10万円で、家賃は5万円。日々の生活がカツカツでした。羽田へ行っては、慶一さん&博文さんのお母さまによくご飯を作っていただきました。慶一さんは、そんな私たちに会えばいつもご飯をおごってくれましたし。鈴木家には本当にすごくお世話になりました。

 お金がなくていちばんつらかったのは、食べられないことより、お洋服が買えなかったこと(笑)。でも、ないならないで自分なりに考えるものなんですよね。母のおさがりや、救世軍バザーで買った服をリフォームしたり、ボタンをつけかえたり、後ろ前逆に着てみたり。いろんな工夫をしてなんとかおしゃれ心を満たしてました。DCブランドブームの世の中を横目で見ながらね(笑)。