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一人称は「ぼく」、キャッチコピーは「半分少年・半分少女」……野宮真貴が語る、売れなかったあの頃

渋谷系歌姫、還暦になる。 #2

note

「渋谷系」ムーブメントの震源地となる

 私が加入したことで、小西さんは新しい曲やヴィジュアルを次々に生み出していきました。とにかく、男性ボーカルから女性ボーカルになったことだし、レコード会社も日本コロムビアに移籍したので、最新の音を追求するのはもちろんだけど、徹底的にヴィジュアルにもこだわろうと。アートディレクターの信藤三雄さんももう1人のメンバーのようになり、ファッション雑誌のように、新しいイメージをどんどん出していくことになりました。サントラやアルバムなどを5ヵ月連続でリリースしたりもしました。

 小西さんの頭の中には音もヴィジュアルもアイデアがたくさんあって、それが次々に出てくるんです。それを信藤さんに投げると、信藤さんがそれに答える、そのやりとりでピチカート・ファイヴの世界が作られていくんです。私は、それに対して意見をほとんど言わないことにしていました。彼らを信頼していましたから。

 でも、メンバーなので会議には出るんだけど、それがなかなか大変。小西さんと信藤さんにアイデアが「降りて」来るまで、ひたすら待つんです。その沈黙に耐えられる人だけがスタッフとして残るっていうか(笑)。

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1991年、ドラマ『学校へ行こう!LET’S GO TO SCHOOL』のサウンドトラックを皮切りに、4曲入りマキシシングル『最新型のピチカート・ファイヴ』、『超音速のピチカート・ファイヴ』、『レディメイドのピチカート・ファイヴ』、そしてアルバム『女性上位時代』と5ヵ月連続リリースを敢行。

 小西さんとは好きな世界観が近かったし、話も通じる。センス的にはすごく似たものを持っているので、小西さんがやりたいことを、歌とヴィジュアルで表現するのが私の役割だと思っていました。映画で言うなら、「監督と女優」に関係に近いかもしれない。小西さんはピチカート・ファイヴの世界観を作る監督、私は女優=ヴォーカリストに徹していました。だから、私はどんな無理難題も「できない」と言ったことはないんです。でも一度だけ言ったかな? それは「シャネルスーツにスキンヘッドがカッコいいと思うんだけど」って言われて、さすがに「スキンヘッドはイヤです」と(笑)。

 やがてピチカートは「渋谷系」と言われる音楽の中心となっていったわけですが、それが面白かったのは、音楽だけじゃないところだったと思うんです。ヴィジュアルも含めた世界観。60年代の音楽はもちろん、映画やファッションも「ネタ元」があるわけですけど、そういうアートを伝えるカルチャー・ムーブメントが「渋谷系」だったんじゃないかなって。

 でもいま、ジャケットを見返してみると、奇をてらったファッションは意外とないんですよね。ヘアメイクやスタイリングと私のポーズや表情を絶妙なバランスで撮影するセンスが大切なんです。当時一番センスのあるスタッフが私たちの周りに集まっていたと思います。ライブはショーですから相当盛ってましたけどね(笑)。

野宮真貴

ピチカート・ファイヴ3代目ボーカリスト。ピチカート・ファイヴの名曲を収録した「THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001」が7inch BOXとCDアルバムで発売中。20年3月12、13日にライブ「野宮真貴、還暦に歌う。」を開催。彼女が敬愛する鈴木雅之と横山剣がゲストボーカリストとして登場する。

http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=11864&shop=1

text:Izumi Karashima
photographs:Wataru Sato
hair&make-up:Noboru Tomizawa

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