幕末の長州にあって「奇兵隊」を組織するなど活躍した高杉晋作は、慶応3年4月14日、数えで29歳(満27歳)にして亡くなった。この日は西暦では1867年5月17日、いまからちょうど150年前のことである。
その前年、晋作は幕府の第二次長州征伐に際し、奇兵隊を率いて幕府軍を撃破すると、関門海峡を渡って小倉城攻撃を指揮した。だが、この間、風邪をこじらせて肺患を悪化させ、落城後にはとうとう療養を余儀なくされる。
その臨終のまぎわ、晋作は辞世の句を書こうと筆と紙を所望したものの、「おもしろきこともなき世をおもしろく」としたためたところで力尽きた。これを見かねて、集まっていた知友のひとり野村望東尼(ぼうとうに)が「すみなすものは心なりけり」とまとめると、晋作は「面白いのお」と笑って目を閉じたという。
晋作は死後、奇兵隊の本営のあった吉田郷に埋葬され、そこにはただ「東行墓」と号だけが刻まれた墓石が置かれた。余談ながら、晋作には「おうの」という愛妾がいた。友人の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は、彼女のことを心配して晋作の墓守りの尼にしたと伝えられ、ときには美談として語られる。だが作家の山田風太郎は、これについて「両人とも、自分のことは棚にあげて(中略)いい気なものである」と評し、長州の志士たちがそろいもそろって愛人を囲っていたことを、さりげなく皮肉ってみせた(山田風太郎『人間臨終図巻1』徳間書店、電子書籍版)。