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眼を瞑って、そう、大きく、大きく息を吐くのよ

2017/05/25

 血を分けた息子である私には優しいが、お袋は機嫌が乱気流のように激しくて、そのたびに家族やら親族やら出入りの業者やら、誰かれ構わず喧嘩をしていた。幸いにして見つけた私の伴侶たる家内とも些細なことで喧嘩したまま、家内は家内で体調を崩してしまった。どこの家にも姑と嫁の問題はあるかもしれないが、客観的に見て家内のほうが物を申す筋は圧倒的に正しかったので家内に申し訳なくて、最終的に私もお袋と話す気力もなくなった。それもあって、実家から足はさらに遠のいた。家内の父も母も決して体調は芳しくなく、育ち盛りの子供たちの育児にも奔走せざるを得ないので、必然的に親父やお袋の世間的な面倒は私が看るしかなかった。家内の助力は得ようがないとは悟っていたが、書類その他整理するだけでもこんなに苦労するものだとは思ってもみなかった。それにしても保険証だ銀行の印鑑だと年寄はモノを失くす。たったいま捺したと思ったその判子をいきなりどっかにやってしまうのだからどうしようもない。

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 数日経って、お袋の意識が回復して一般病棟に移ったというので病院に足を向けてみると、お袋が懸命にフガフガ言っている。何かを必死で伝えたいらしいが、口が動かず何を言いたいのかさっぱり分からない。ただ、深刻な表情のままの医師から、半身不随にはなったが一命は取り留めたと聞いて、俄然親父が元気になった。もうお袋を連れ帰る気マンマンである。倒れたばかりで、これからリハビリだぞ。無理に決まってるじゃねーか。病室の薄い扉の向こうまで響く「ガハハハ」という声が入院棟にこだまして、眉をひそめて困惑する看護師たちにおずおずと注意されるまで、口の回らないお袋相手に親父はずっと話しかけ続けては大声で笑っていた。親父なりにホッとしたのか、あるいは気遣いもあったのか。

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 お袋が急性期を脱してリハビリ病院に転院すると、長引く入院が堪えたのかお袋は一日も早く退院したいと訴えはじめ、親父は親父で「ママのご飯が食べたい」と言い出した。年寄どもめ、こちらの気持ちも分からずに我が儘ばっかり言いやがって。ここから制度上目いっぱい入院できる半年間のリハビリ病院の生活が待っている。退院までしばらくはかかると伝えたら、今度は親父が露骨にがっかりした。年ばっかり取って、なのに、だらしない男だ。ジェットコースターのように気分が上下していて、こちらが悪酔いしそうになる。私も家内の体調が良くないし、育児その他家庭のこともあるし、極めつけは頻繁にあちこち出張もするので、実家には寄り付かず、ヘルパーさん任せで行けるところまで行こうと思っていた。