柴田講平が語った「落球」の思い出
なかなか聞く機会がなかった。それでもいつかは聞かないといけないと思っていた。
ネットで「柴田」と検索をすると、一番最初に出てくるのは「落球」。昨オフにタイガースを戦力外。テスト生からマリーンズの一員になった柴田講平外野手にとって、それは触れられたくない過去なのだと感じていた。きっと熱狂的なファンで知られる虎党からも散々叩かれ、ヤジられてきたのだと思うと心が痛んだ。だから入団会見で最初に顔を合わせた時もその話は決してしなかったし、インタビューでも、そのような質問をされないように気を使った。
交流戦が始まる2日前だった。バファローズ3連戦を終えたロッカーは閑散としていた。翌月曜日は休日で翌々日から本拠地ZOZOマリンスタジアムでタイガース3連戦。最下位に沈むマリーンズはセ・リーグ相手の交流戦で巻き返しのキッカケを掴むべく、思い思いの時間を過ごしていた。
球場に最後まで残っていたのは柴田だった。室内練習場での打ち込みを終え、バット片手に汗だくでロッカーに戻ってきた。これまでも様々な会話はしてきたが2人だけで初めてゆっくりと話をした。翌々日から始まる古巣タイガースとの3連戦。一番の思い出を聞くと、とっさに返事が返ってきた。さらりと言ってのけた言葉に驚いた。
「やっぱり自分にとっては神宮でのバレンティン(の打球)の落球ですね」
プロ初ヒットか初本塁打か初めて決勝点をたたき出してヒーローインタビューを受けた試合かと思っていたが、すぐに出てきたのは苦い思い出の方だった。それは今でも忘れることが出来ない特別な事件。柴田を見るファンの目もそれから変わっていった。
「自分のところにフライが上がるたびにスタンドがザワザワするんです。捕るとオッとなる。まあ、そりゃあ、そうだよなあと自分でも開き直っていました」
「あの事があったから今がある」
事件が起きたのは11年8月14日の神宮球場。8-3とタイガース5点リードだが、二死満塁のピンチでのバレンティンの打席だった。ポンと打ちあがった打球にセンター・柴田は手を挙げた。ただ、本人はその時点で嫌な予感がしていた。「フライが上がった瞬間、ちょっといつもとなにかが違う嫌な感じがしたんです。高く舞い上がって、途中で距離感が分からなくなった」。
その年に東日本大震災があったこともあり、プロ野球では電力不足を考慮してナイターの際の照明を少し落としていたことも影響したのかもしれない。高く上がった打球との距離感が突然分からなくなり、気が動転した。頭が真っ白になった。ボールはグラブの端に当たると大きく弾かれ誰もいないライト方向に転々と転がった。
走者一掃。試合終了のはずが2点差まで詰め寄られる事態となった。負の連鎖は続く。パスボールでさらに1点。その後も内野手が打球を前に弾き、出塁を許すなど、柴田のプレーをキッカケにチーム内に動揺が広がった。それでも最後はマウンドの藤川球児が締めて試合終了。最悪の事態は免れた。
「普通は勝ったらハイタッチなのですけど、まずマウンドにいってみんなに頭を下げました。先輩方は『勝ったのだから』と励ましてくれましたけど、自分の中ではものすごく情けなかった。今でも思い出すことはやっぱりありますね。鮮明に覚えている」
神宮ではベンチからクラブハウスに戻るまでの帰りの導線はスタンドの横を通過していく。勝ったにも関らずヤジを浴びた。ただ、優しい励ましの言葉もあった。それは柴田の心に今も残っている。当時の首脳陣は「これ以上のミスはないだろうから、このことを忘れずに頑張る事だ」と声をかけられた。二軍落ちも覚悟をしていたが、このシーズンは一度も二軍落ちをすることなく104試合に出場した。いろいろな事のあったシーズンだった。
「なぜ、一番の思い出か? あの事があったから今がある。いろいろ言われたけど、あの時、色々な人に励まされたりアドバイスを受けたり、自分の中で覚悟が出来たから、その後の自分を形成しているのは間違いのないこと。今は全力ではなく8割ぐらいの気持ちでボールを追いかけます。そうすると硬くならず、慌てることもない。今のような感じであの時もやれていたら捕れていたかなあと思いますね。ただ、やっぱり同じような角度の打球が飛んでくると、一瞬、ウッとなります。もちろん、そこからしっかりと気持ちを入れ直してボールを睨みつけて、落ち着いて距離を測って捕ります」