ハンカチ世代の男・小池翔大
プロ野球人生はあっという間だ。つい最近、テレビカメラに囲まれ華やかな入団会見を行った選手の退団の瞬間に立ち会うのは、長年やっていても辛いものがある。
2010年12月。マリーンズに育成枠をあわせると9人の選手が入団をした。この年はいわゆるハンカチ世代が大学を卒業し、プロの門を叩いた時。会見に臨む前の控室で想定問答を新人に伝えたのを昨日のことのように覚えている。
私は「ファイターズに入団をした斎藤(佑樹)選手に関する質問は必ずあるかと思いますので、大卒選手は回答を考えておいてください」と話をした。その時、入団をした大卒選手の一人が小池翔大捕手だった。常総学院を経て、青山学院大学3年、4年と全日本で活躍するなど次世代を担う捕手として高い期待をかけられて、ドラフト4位でのプロ入りだった。
「自分の中でハンカチ世代ということで特別な意識はなかったですね。自分はとにかく毎日が必死でしたから。でも、僕らの世代の中で斎藤選手と田中(将大)選手は別格。凄いなあとは思っていました。今も気になりますよ」
小池は2014年シーズン限りで現役を引退。今は二軍用具担当兼ブルペン捕手という肩書の裏方スタッフとして頑張っている。ハツラツとした姿勢。どんなに仕事が重なって忙しい時も笑顔を絶やさない。プロ野球選手としては4年。あっという間の日々にも未練を一切口にせず、今の職務をまっとうしている姿にはいつも感心をさせられる。
「これが実力だったから仕方がないと思いました。振り返ってもキリがない。残念だったけど、後悔はない。一生懸命やった結果。自分の中では気持ちの整理も出来ていました。新しい仕事でしっかりと貢献しないといけないと思っています」
“自分らしさ”が出た人生最後の打席
ルーキーイヤーにキャンプ一軍入り。オープン戦でも一軍帯同したものの、その後は結果を残すことが出来なかった。一軍では1試合の出場、2年目に1度だけ打席に立ち、セカンドゴロに終わった。その後は、一軍の壁にはじき返され続け2014年シーズンも終わった。覚悟をしていたが、球団が最初に実施した戦力外通告で呼ばれることはなかった。「もしかして」の期待はゼロではないものの、それが淡いものであることは察していた。
宮崎で各球団が若手選手たちを出場させて練習試合を繰り返すフェニックスリーグに参加しながらも、胸のモヤモヤは残ったままだった。そうするうちにドラフト会議が終了。大卒捕手も指名されていた。ドラフト2位では京都大学から田中英祐投手を指名。球団幹部が京都大学に指名挨拶を行うニュースをテレビで見た。その夜、宿舎のエレベータで球団幹部と会った。
「あれ? 今日、京都に行っていたはずなのになんで宮崎にいるのかと思いました。でもその気まずそうな表情で、すぐに分かりました。明日、戦力外を言われるなって」。だから翌日の試合。これが最後だとの想いでベンチ入りした。
残念ながらスタメンではなかったが、DHに入った選手の代わりに途中出場をした。1打席目は凡退。最終回に回ってきた打席は人生最後の打席になると自覚しながら立った。思いっきり振ろうと心に決めた。しかし、相手投手のコントロールが定まらない。3球連続でボールの4球目。今度こそ絶対に振ってやろうと決めていたが、ボール球にバットが止まった。
それは野球人として染み付いたものだった。小学校から決められたストライクゾーンの中で必死に野球と向き合ってきた。小池にはそれが人生最後の1球であっても、ボール球を振ることはどうしても出来なかった。一塁ベース上でそのことを考えると思わず笑ってしまった。
「後悔があるとしたらあの打席ですかね。オレって持っていないなあと思いました。どんな悪球でも振ってやろうと決めていたんですけどね。でも、四球を選んだのも自分らしいと思った」
そんな実直な若者に球団は二軍用具担当というポストを用意していた。事前に人当たりがよくまじめな性格を把握していたこともあり、前任者が退職したのを機に白羽の矢が立ったのだ。大学時代には全日本の正捕手として菅野智之(巨人)、野村祐輔(広島)、東浜巨(ソフトバンク)、そして斎藤(日本ハム)など、今のプロ野球をリードする錚々たるメンバーのボールを受けていた男は、こうして新たな第一歩を踏むことになった。