拝啓えのきどいちろうさま。
交流戦です。交流戦が始まってしまいます。ベイスターズファンが一年に一度、一時的に記憶を無くす季節です。今年はハム様と札幌ドームで初戦を迎えるそうですが、札幌ドームの記憶もほとんどありません。あ、道産子の砂田毅樹投手が育成から上がって、大谷翔平くんと堂々と投げ合ったのは憶えています。確か砂田投手は満塁のピンチでベンチに戻りました。そこで雨天ノーゲームだったのかな。ドーム球場でもそんなことってあるんですね。
年を取ったのか、交流戦の記憶は無いのに、だいぶ昔の、まだホームランを打つとクジラのぬいぐるみが宙に舞っていた頃に好きだった、あんな選手やこんな選手のことなどは、つい昨日のように鮮明に思い出します。
私がむっちゃ好きだった外国人選手、それはジェームス・パチョレック内野手です。物心ついてからのベイスターズ(ホエールズ)における元祖イケメン外国人(※当社比)。聞いてもらえますか、私の初恋の記憶。
私を大人にした「パッキー」
パチョレックが日本にやってきたのは1988年、私が12歳のときです。友だちはみんな光GENJIに夢中でした。私はあっくん派でした。だけど何か違う……私が求めるのはこのふわふわした髪の毛のかわいい華奢な男の子ではない……。友だちと一緒に騒ぎながらどこかでモヤモヤしたものを感じていたとき、現れたのがパチョレックだったのです。
首、太っ! 足、長っ! 鼻、高っ! その頃私が知っている外国人といえば、高見山かカルロストシキくらいなもので、その衝撃は推して知るべし、です。
親に頼み込んで買ってもらったパチョレックの下敷き。この原稿を書こうと思って実家を探しまくってるのですが、どこにいったのかまだ見当たらなくて。今でも中学の同級生に会うと「パチョレックの下敷き使ってたよね~」って言われるんですよ。他になんかあんだろ私の思い出って、ちょっと思います。
パチョレックは私にたくさんのことを教えてくれました。まずパチョレックを「パッキー」って略すということ。「♪そこで打て、打てよパッキー、ライトスタンドまで」という応援歌で、映画『大脱走』を知りました。私の記憶の中のパチョレックは、打てずに暴れることもなく、打ってもパフォーマンスもなく、ただただ確実にヒットを放つイケメン。加えてファーストの守備は確実だったような。そう、今のロペス課長のようですね。毎年毎年3割を叩きだすってすごいこと。どこかのカナダ代表に聞かせたいですわ。
私の中に「女」が芽生えた瞬間
思い出します。確かあれは阪神戦でした。大差をつけられていた試合で、ベイスターズが持ち前の謎の粘りを見せ、マイヤーのホームランでついに同点! ベンチで喜ぶ加藤博一。そして次なるバッターはパチョレック。迷いなく振りぬいた打球はまっすぐにレフトスタンドへと消えていきました。ベンチで喜ぶ高橋雅。ここで打て、打てよパッキー、レフトスタンドへ。貴重な逆転打を放ったにもかかわらず、当のパチョレックは黙々とクジラのぬいぐるみを受け取り、淡々とハイタッチしていました。
何これカッコいい……抱いてくれ……。今思えば、あのときが少女の私の中に「女」が芽生えた瞬間でした。あのパチョレックのホームランにはそれだけの力がありました。アメリカ万歳。デトロイトよありがとう。その後ベイスターズが謎の大逆転をしたときにやってくる、女性ホルモンが体中を駆け巡るあの感じは、このホームランから始まっている気がします。
そして……これがパチョレックに教えてもらった一番大きなことかもしれない。それは助っ人外国人とは早めのお別れがくるということ。今でも納得いかないのですが「ホームランが打てない」という理由でパチョレックはホエールズを解雇になりました。確かにそんなにホームラン打ってる記憶はないですけど。応援歌では「ライトスタンドまで~」とか歌ってるけど。でもそんなこと言ったら「たかはしまっさ~が打つぞ~ライトへホームラン~」とかどうなるんですか。JARO案件ですよ。
とにもかくにもパチョレックは行ってしまいました。西の方へ。それでも頑なにパチョレックの下敷きを持って学校に通っていた私。信じたくない。パチョレックがいないなんて信じたくない。だけど、容赦ない現実がハマスタで私を待ち構えていました。