父親の“ある光景”を目にして「もう一回、ピッチャーやりたい」
これが最大の転機だった。投手でいるときは坂本など周りの投手が気になってばかりいたが、外野手としては初心者。誰よりも下手という自覚があるため自分の技術を向上させることに夢中で周りと比べては落ち込んでいた自分に別れを告げることができた。「外野をやっているうちにちょっとずつ自分の状況を認めることができるようになって、逆に開き直ることができたんです。そのうちに外野は遠い距離を投げるので、体を大きく使って強く投げられるようになりました」。投げる感覚が戻り本来の野球の楽しさを思い出してきたころ、自宅である光景を目にしたという。
「父親が自室でシャドウピッチングをしていたんです。投手を辞めるといって以降何も言ってこなかったんですけど……その姿を見たらもう一回、親のためにもピッチャーやりたいなという気持ちになりました」
練習で打撃投手を買って出るなど、打者に対しても投げられるようになっていた。技術はもちろん、「ベンチからは外せない選手」と後藤監督が話すように、元氏は副主将としてチームを引っ張っていたことで心も成長していた。マウンドに立ち続けていた元氏は裏方に徹することでチームメイトも別人と評するほど変わった。「こいつにはこの考え方があってるなとか、人との接し方がみえるようになった。入学した時はツンツンにとがってましたね。触ったら相当危ないくらいに(笑)」
大学4年の最終戦、最初で最後の登板
ひそかに抱いていた「いつかまた投げたい」という念願は最終学年となった4年の8月、京都トーナメントで叶った。帰省すると父・真二さんから「145キロか、まぁまぁやな。体ひらいとったぞ」。喜びを隠せない表情で愛のあるダメ出しがあったという。そして、大学最後のリーグ戦、最終節の10月18日。8回裏2死の場面で背番号25がマウンドにあがった。「ピッチャー元氏」。アナウンスが聞こえると記者たちはあわててカメラをマウンドにむけた。降りしきる雨の中でのリーグ戦最初で最後の登板。初球は140キロの直球。2球目はなんと自己最速の147キロを計測した。3球目も140キロの直球を投じると、見事に3球で空振り三振を奪ったのだ。小学生の頃から投げていた懐かしのわかさスタジアム京都での登板を終えた元氏は「今は失うものもなくて楽しかったです!」と溌溂と振り返った。スタンドでは傘を差しながら両親が見守っていた。
「ピッチャーをやめてから親と野球の会話が減っていました。母は投手の本を買ってきては手渡し。でも読む気にならず新品のまま本棚に片づけていました。そういうのが嫌な時もありました。でもこの日は帰ると言葉ではなにもなかったですが、雰囲気で喜んでるわってわかりました。口数多かったんで(笑)」
「ピッチャーに背番号25は似合わんなぁ」。龍谷大平安の原田英彦監督からは、いかにも原田監督らしい不器用な文面で復帰を祝うメールが届いた。“人生に野球の心を”。原田監督が高校卒業時にボールにしたためてくれた言葉だ。「永遠のテーマですね。野球でたくさんのことを学んだので、社会人になっても野球から学び、活かしていきたいです」。甲子園優勝からもがき苦しんだ約6年。長いように思える時間も、「遠回りとは思っていない」と言い切った。イップスに悩まされていた自分へ今なら胸をはってこういえる。「何事も思うようにいかなかったりするとモチベーションが上がらないと思う。でもなんで野球を始めて今も続けているのか。結局は野球が大好きやからや。それを途中でいやもうダメやと思うくらいならそれはお前にとってそんなもんやったんやろ。好きなことを好きな場所でできるんやから楽しんでやればいい」。
長くて暗いトンネルを抜けた22歳は今月、社会人の軟式野球チーム・スリーボンドの寮に入った。さっそく新しいユニホームに身を包み、次の夢に向かって腕を振り続けている。「大野豊さんのように軟式からプロ野球選手になった人もいますし。満足するとそこで終わってしまうので、できるところまでチャレンジします!」。晴れやかな表情の先は視界良好に違いない。
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