シュルレアリストとしてキャリアをスタート
ジャコメッティは1901年、スイスの生まれ。ジュネーヴ、ヴェネツィア、ローマで美術を学び、1922年、意気込んで当時の芸術の中心地パリへ赴いた。数年の後、自作を発表するようになるころ、パリで幅を利かせていたのはシュルレアリスムだった。アンドレ・ブルトンやサルバドール・ダリらが文学、美術など幅広いジャンルで、現実を超えた現実を表現に取り入れようと実験を繰り返していた。
ジャコメッティもそうした面々から高く評価され、1930年からシュルレアリスム運動に参加する。しばらくは抽象的なテーマの作品を手がけていて、今展でも当時の作品はいくつも見ることができる。
その才能は広く認められていたものの、ジャコメッティは1935年ごろにみずから作風を転換させる。具体的なモデルを使って彫刻をつくり始めたのだ。そうして第二次世界大戦後になると、針金のように細かったり、平らだったりする彫刻が、次々と彼の手から生み出されるようになっていった。
20世紀を代表する「問い」
虚心に対象を見つめるジャコメッティの目には、人間の姿が等身大で膨らみのあるものには映らなかったということなのだろう。自身が感じたままの人間を造形しようとして、奇妙な人間の像に行き着いたわけだ。ジャコメッティが表す人間は、微風に負けて飛び去りそうだったり、ちょっとした刺激でもポキリと折れてしまいそうだったり、内面など持ちようもないほどペラペラの外見だったり。それらは、人間の存在そのものが不安にさらされている様子を、可視化しているように見える。
これらの像が制作されたのは、人類の残酷さが露呈した20世紀の2度の世界大戦を経て、まさに人間の尊厳が厳しく問われていた時期。ジャコメッティの彫刻は、そんな時代の空気が凝縮してかたちを成したかのよう。
人がそこに「在る」とは、決して自明なことじゃないとジャコメッティには思えた。そこで彼は、人とは何か。どうあるべきか。どこへ行くのか。そんな根源的な問いをキリキリと考え詰めていった。会場に充満する張り詰めた空気の正体は彼の創作に対する緊張感そのものだ。
ジャコメッティ自身の残した以下の言葉は、まさにアーティストとしての彼の為したこと、20世紀の美術が追求し続けたことを端的に示している。
「ひとつの顔を見える通りに彫刻し、描き、あるいはデッサンすることが、私には到底不可能だということを知っています。
にもかかわらず、これこそ私が試みている唯一のことなのです」。